季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

フルトヴェングラーかカラヤンか 2

2009年03月05日 | 音楽
この種類のテーマは僕にとっては大変重要なのである。ガキのころフルトヴェングラーを知ったのはまあ偶然に過ぎない。おかげで音楽家なんて割りの合わない職業に就く羽目になっただけである。

しかしいざ音楽家になってみると、執拗に究めなければならない問題がこの人の中にこそある、と感じないわけにはいかないのだ。ピアノという楽器に真剣に向かい合ったのは30歳近かったが、いざハンゼンから習うことを、体ごと自分のものにしようと思ってふと気がつくと、フルトヴェングラーはいっそう大きな姿で真後ろに立っていた。そんな感じであった。

そうしたことを直接書きたいのではない。

さしあたってテールヒェンの本を紹介するにあたり、偶然目にしたこの人の語り方を思い出さざるを得ない。

僕がまだドイツにいたころ「情熱のロマンティカー」と題したフルトヴェングラーのドキュメントを見た。その中でテールヒェンがインタビューに答えている姿があった。

今にして思えば「フルトヴェングラーかカラヤンか」はすでに上梓されていたのかもしれない。

色んな分野の人たちに混じって、この人の語る眼差しと口元はひときわ僕の注意を惹いた。ただのインタビューの受け答えとは違い、祈るような、訴えるような真剣さがそこにはあった。どういえばよいだろう、フルトヴェングラーという過去の大指揮者の思い出を語るのではない、これは私の今日の問題だとでもいうかのような。

このドキュメントは(たぶん)テーゲルン湖上からかつてフルトヴェングラーの住んでいた家を写し出すところから始まる。「ジークフリートの葬送行進曲」が流れている。シンバルが激しく、重厚に打ち鳴らされ、チューバが重く温かいハーモニーを奏でる。
悲劇的生涯を象徴するかのようで、以前「フィンガル」で触れたようにヨーロッパの番組は音楽の扱い方がじつにうまいと感心してしまう。

テールヒェンに対するフィルハーモニー楽員の反応は必ずしも好意的ではなかったらしい。そうだろう。人はどのような場合でも自分の置かれた立場を是認したいのものだから。

テールヒェンの本の特色はたとえば次のような点に現れる。

彼は言う、どんな人の中にもある程度のフルトヴェングラー的なものと、ある程度のカラヤン的なものとがある。

献身的に何かに向かうことと自己愛のことだと思えばよい。つまりテールヒェンはこの二人の指揮者の中に人が必ず持っている性質の象徴を見出したのである。フルトヴェングラーにも当然自己愛があった。いうまでもないことだ。

それを見逃さずに、つまりテールヒェン自身もただ精神的潔白さを主張しているのではない点を僕は公平な視点と呼んだのであって、公平な視点というのはどちらにも組しないということではない。

テールヒェンは何度も来日し、芸大などでも教えたりしたようである。これは僕がインタビューから知ったことだ。

今日でも日本の若い音楽家の卵がもっとも関心を寄せるのがフルトヴェングラーだそうで、彼の何が人の心を惹きつけるのか、にテールヒェンは気を配る。言外に心惹かれる人たちはもう一歩踏み込んで音楽への献身的な態度こそいつまでも人を捕らえてやまぬものの理由であることを知って欲しいと言っているのだ。

彼の願いは通じたのか?そうであることを祈る。ただ、芸大の中で話題になったのは打楽器科、良くて指揮科だけではなかったろうか。

他の科に話題が流れていたのならば僕の耳にも何らかの形で届いたであろう。もしもたいした話題になっていなかったのならば、テールヒェンの祈りは通じなかったことになろう。いずれにしても残念なことだ。