季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

報道といえるか

2009年06月07日 | その他
新型インフルエンザは、あらためて科学とそれを凌ごうとする自然について考えさせる。まったくもって不思議だ。自然というのは何だろう。

神戸で国内感染の最初の事例が発した日、その神戸から僕のところには県立高校生がレッスンに来ていた。

次に川崎の洗足学園で感染者が出たが、この学校からは何人もの生徒が習いに来ている。

そこから感染源は僕である、という結論を出す人がいれば、その人は僕が清潔であることをよく知らない人だ。

各メディアはこぞって学校を取材した。いうまでもないけれどね。休校になってガランとした教室を写したり、生徒にインタビューをしたり、例の大騒ぎだ。

誰しもがこんな映像は無意味だと思うだろう。それでも、他の機会には、テレビや新聞で報道されることを知らず知らずに受け止めていってしまう。

どこかで芸能人が言っていた。自分のことが書かれると「何でこんなでたらめを、どんな根拠で書くんだ、と怒り心頭だが、他の人のことが書かれていると、へーそうなんだ、と思ってしまう自分がいる」と。

誰がこの人を笑えるか。

長い休校が明けたときにも報道陣が殺到した。いったい何のためか。この「儀式」が本当に必要だと思っているのか。単に効果を狙った、それも低級な演出だろう。

台風のときに吹きすさぶ風と雨の中で飛ばされそうになっているレポーターをよく見かけるでしょう。

あれも演技なのだ。カメラがもう切り替わったときには普通に歩いている。その種のやらせは日常だろう。切り替わったと勘違いして、演技を終了してスタスタ歩いている映像が流れたこともある。

ところが、中には本当に自然の猛威の中で痛ましい事故が起こることもある。雲仙の普賢岳で多くのレポーターが亡くなったことはまだ記憶に新しい。

演技か、本物かが問題なのではない。火山の噴火を報道するのに、より近くまで行って危険です危険ですと絶叫するのが報道であるのか。その方が視聴率が高くなるというのならば、視聴者も、見ているのは報道ではなく、ショーだろう。それを知っておく方がよい。

インターネットは使い方次第では他のメディアよりはるかに中立性が高くなる。既存のメディアは逆のことを言うが、たとえば新聞各社を考えてみればよい。左から右まで、スタンスはずいぶん違う。しかも記事の取捨選択は一意的に新聞社に委ねられている。

テレビの街頭インタビューも、全部が全部とはもちろん言わないけれど、怪しげなものが多い。

これも人の発見によるが、まったく同じ人物が何度も違った話題でのインタビューに答えたりしている。要するに、あるテーマにより「似合った」人物を探してくるのだ。

つい先ごろも、ある高級を自認する雑誌で女子中学生たちが、家で食事をせず、ファーストフードで買い、道端で食べるという記事と写真を載せた。「友食」なんて、この数十年日本が大好きな安手の当て字の見出しをつけて。

ところがこれは記者が出会った女の子たちに声をかけ、金を渡し食べ物を買わせ、しゃがんで食べることまで依頼したことが判明した。雑誌社は謝罪はしたが。

これらは皆、ネットの記事から拾い上げたものである。

メディアはこうした演出をたえず行っていると見做してよいと思う。

いったい何のためなのか。それは各自が考えて欲しい。手段は間違っていたが、そういう「事実」が憂慮すべきなのは変わらないはずだ、と言い訳するかもしれない。

憂慮すべきだとしたら、各人が自分の判断で憂慮すべきだろう。そしてその判断は、自らの日常生活以外はメディアでの報道に拠るところが大きい以上、そのような言い訳が通用しないことくらい、誰にでも分かるだろう。

こうした下手な演出によるショーは、人から健全な思考力、判断力を奪っていく。僕は強く抗議したい。新型インフルエンザも怖いが、こうした旧型演出もそれ以上に怖いのである。