昨年11月24日の「パイプオルガン」を書いていて思い出したことを書き付けておきたい。
合唱隊の真下で聴いていると、教会の階段の位置次第ではバスだけが先に耳に届いたりして、普通の意味では混沌としてしまうことを書いた。
オルガンの演奏で難しいことのひとつは、教会の非常に長い残響の中で自分のテンポを守ることだと思われる。
僕たち聴き手は、終始和音がいつまでもいろんな所から降りてくるのを楽しんでいればよいのだが、演奏者としてはそういうわけにもいくまい。慣れの問題だろうが、最初は面食らうだろうな。
僕が思い出したことは後で書くことにして、今こうして書きながらふいに思い出したことを先に書いておく。ふいに思い出すことだらけだが、そこはこのブログがメモの代わりだということで了解してもらえるだろう。
僕が聴いたオルガンの演奏会は、大体においてテンポが速すぎた。オルガニストはやたらに長い音響に身をゆだねることなく、むしろその残響に惑わされないことだけを心がけているかのように聴こえた。
弾き手は惑わされない訓練ができるかもしれない。乱暴に言ってしまえばほとんど目をつむったような心持で弾ききってしまえばよい。それは慣れ次第でなんとかなる。
しかし聴き手の立場から言えば何といおうか、残響も含めて「味わいたい」のである。フーガなんていうのはそういった芸術ではないのだろうか。頭に訴えかける芸術でもあると言ったらまた勘違いする人もいるけれど。
また、ストップの使用方法があまりにマニアックであることが耳に障った。一番極端な例をひとつ挙げておく。
5度の倍音が出る管がある。つまりドを弾くとソが鳴る。ウェストミュンスターのチャイムを思い出してもらえば分かりやすい。誰でも基音と5度上の音とを聴くことができるだろう。それがオルガン特有の一種の光彩を帯びた響きをもたらしている。
当然このストップは彩を添えるために考え出されたものなのである。それがある時、単独で用いられたことがあって僕は非常に腹が立った。現代の演奏家の一典型をそこに見たから。
オルガンは礼拝に使うのだ、などと考えているのではないけれど、この楽器を単なるキーボード操作が複雑で「遊べる」楽器だと言わんばかりの態度にはやはり抗議しておきたい。
さて思い出したことというのはブルックナーの3番シンフォニーのフィナーレのある箇所のことである。
彼の作品でよくあることだが、一見何の脈絡もないように、総休符のあとレミレドレドレ、ミファミレミレミと同じ音型が繰り返されながら(ゼクエンツといいます)上昇する箇所がある。そうしてその音を裏拍で追いかける楽器群があり、響きは混沌を極める。
これが長いこと得心いかなかった。いったい何のために裏拍で追いかけるのか?
ある時教会でオルガン演奏を聴いていたとき、ふいにこの箇所のことを思い出した。なんだ、教会のオルガンの響きを模倣しようと思いついただけじゃないか。ブルックナーが聖フローリアン教会のオルガニストだったことくらいは知っていたけれど、そして作品にはオルガンの響きを思わせるところがたくさんあるのは気づいていたけれど、教会の響きそのものの模倣まであるとは思いもしなかった。
いったん気づいてしまうと、どうしてこんな素朴なことに気がつかなかったのかと我ながら呆れるのである。
もしかしたらこんなことは解説書に書いてあるのかもしれない。でも読み飛ばしている人だって多いだろう。ヨーロッパに行ったら一度教会のオルガン演奏会に行ってごらんなさい。おっと、その前にブルックナーの3番シィンフォニーを聴いて僕の言う箇所を見つけてからね。
合唱隊の真下で聴いていると、教会の階段の位置次第ではバスだけが先に耳に届いたりして、普通の意味では混沌としてしまうことを書いた。
オルガンの演奏で難しいことのひとつは、教会の非常に長い残響の中で自分のテンポを守ることだと思われる。
僕たち聴き手は、終始和音がいつまでもいろんな所から降りてくるのを楽しんでいればよいのだが、演奏者としてはそういうわけにもいくまい。慣れの問題だろうが、最初は面食らうだろうな。
僕が思い出したことは後で書くことにして、今こうして書きながらふいに思い出したことを先に書いておく。ふいに思い出すことだらけだが、そこはこのブログがメモの代わりだということで了解してもらえるだろう。
僕が聴いたオルガンの演奏会は、大体においてテンポが速すぎた。オルガニストはやたらに長い音響に身をゆだねることなく、むしろその残響に惑わされないことだけを心がけているかのように聴こえた。
弾き手は惑わされない訓練ができるかもしれない。乱暴に言ってしまえばほとんど目をつむったような心持で弾ききってしまえばよい。それは慣れ次第でなんとかなる。
しかし聴き手の立場から言えば何といおうか、残響も含めて「味わいたい」のである。フーガなんていうのはそういった芸術ではないのだろうか。頭に訴えかける芸術でもあると言ったらまた勘違いする人もいるけれど。
また、ストップの使用方法があまりにマニアックであることが耳に障った。一番極端な例をひとつ挙げておく。
5度の倍音が出る管がある。つまりドを弾くとソが鳴る。ウェストミュンスターのチャイムを思い出してもらえば分かりやすい。誰でも基音と5度上の音とを聴くことができるだろう。それがオルガン特有の一種の光彩を帯びた響きをもたらしている。
当然このストップは彩を添えるために考え出されたものなのである。それがある時、単独で用いられたことがあって僕は非常に腹が立った。現代の演奏家の一典型をそこに見たから。
オルガンは礼拝に使うのだ、などと考えているのではないけれど、この楽器を単なるキーボード操作が複雑で「遊べる」楽器だと言わんばかりの態度にはやはり抗議しておきたい。
さて思い出したことというのはブルックナーの3番シンフォニーのフィナーレのある箇所のことである。
彼の作品でよくあることだが、一見何の脈絡もないように、総休符のあとレミレドレドレ、ミファミレミレミと同じ音型が繰り返されながら(ゼクエンツといいます)上昇する箇所がある。そうしてその音を裏拍で追いかける楽器群があり、響きは混沌を極める。
これが長いこと得心いかなかった。いったい何のために裏拍で追いかけるのか?
ある時教会でオルガン演奏を聴いていたとき、ふいにこの箇所のことを思い出した。なんだ、教会のオルガンの響きを模倣しようと思いついただけじゃないか。ブルックナーが聖フローリアン教会のオルガニストだったことくらいは知っていたけれど、そして作品にはオルガンの響きを思わせるところがたくさんあるのは気づいていたけれど、教会の響きそのものの模倣まであるとは思いもしなかった。
いったん気づいてしまうと、どうしてこんな素朴なことに気がつかなかったのかと我ながら呆れるのである。
もしかしたらこんなことは解説書に書いてあるのかもしれない。でも読み飛ばしている人だって多いだろう。ヨーロッパに行ったら一度教会のオルガン演奏会に行ってごらんなさい。おっと、その前にブルックナーの3番シィンフォニーを聴いて僕の言う箇所を見つけてからね。