季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

音色という言葉

2010年06月27日 | 音楽
よく聞く言葉である。英語だと toncolor 、ドイツ語だと Tonfarbe となる。色という語を用いる点ではどこの国も似たようなものなのだと分かる。

ではピアノで音色云々をいう場合はいったい何をどう表現したのだろう?僕も日常「音色」ということばを使わないわけではないが、改めて意識してみると、あまり口にしないような気がする。少なくとも言った途端にああいけない、言い直したいと思う。

よく耳にする言い方では「キラキラした音色」などが代表的なものだろう。ところが、僕はピアノという楽器からキラキラした音を想像することができない。今までにずいぶん多くの良いピアニストも聴いてきた。ざっと列記してもアラウ、ゼルキン、ケンプ、ミケランジェリ、リヒテルなどの名前が浮かぶ。

これらのピアニストへの評でキラキラした音と表現されたことはないのではなかろうか。多彩な音色という言葉さえないのではなかろうか。

じっさい僕が彼らの音を言葉で言い表すとしても「キラキラした音」とは決して言わないだろう。言えないな。

だいたい演奏評は形容がまずい。音を言葉で表現なんてただでも難しいのにいとも簡単に書いてしまうからなあ。

音色についてに戻れば、昔は単純に色という言葉を使っても支障はなかったはずなのだが、ピアノ演奏において、一応音が鳴るといったレベルが長く続くうちに、およそ次のような次第になっていったものと思われる。

色彩は誰にでもはっきりと分かる。青と赤を見分けられない人はいない。オーケストラに話を移したって違和感がない。トランペットとオーボエの音色の違いくらい誰でも分かる。

ところでピアノの音ではどうなのだ。誰にでも分かる差異というと音量の大小だ。陰影をつけるより直接音量の大小を求める、というかそれしか方法を知らないピアノ弾きばかり輩出されるようになった。(今「はいしゅつ」の変換候補に排出が最初に出た。実感を言ってよいならこちらを選択したかった)

簡単にその結果だけを言っておこうか。今やピアノのハンマーはフェルトではなくて樹脂だと言うほうが正確な有様だ。製造過程ですでに硬化剤が注入されている上に「ハンマーに薬を、薬をくれ!」じゃなかった「ハンマーに硬化剤を、硬化剤を注入してくれ」と追加注文するピアニストまで出るようになったそうだ。この辺りから良く響くこととやかましいことの区別がつかなくなった。

本来、ピアノという楽器で様々な質感を表現できることを絵画に例えるならば、それは水墨画に近いのである。墨の黒のみで、濃淡を絶妙に使って、青い空、緑の木々、流れる水、広がる大地、そそり立つ岩肌とあらゆるものを表現できる。音色、音色とやかましく騒ぐ人が褒め称える演奏は、往々にしてヒステリックな絶叫を思わせる。それらは硬化剤を注入したハンマー、不正確なタッチ、表面から直接与えられた力によって出される。

毎度、音について書くときには言わざるを得ないけれど、どうやっても伝わらないだろうという諦めに似た気持ちだ。

でも今月号のレコード芸術に吉田秀和さんが相変わらずの文章を書いていて、それをちょっと覗いたらどうしても書かねばと思い立った。

非常な高齢になってなおきちんとした文章をものにするこの批評家の精神力には脱帽する。しかし今回も言わねばならぬことだけは言っておく。

この人も音色という言葉に幻惑されただけの人だ。誌上で彼はゼルキンを褒め称えていた。その上で「ただ、ゼルキンの音は淡彩画のようだった」と言い、色彩的な人々と対比して語っていた。色彩的な人の例としてアルゲリッチ及びユンディ・リーを挙げていた。(アルゲリッチは他のときだったかな?たくさん読んでいるとごちゃごちゃになる。)

彼らの演奏を色彩的だといって肯定する耳は、次から次に粗雑なピアノを製造することに繋がるだろう、という危惧を僕は持っている。

音楽を語ろうとして絵画や文学に話が広がるのは結構だ。僕もそんな傾向がある。しかし音の色なんてよほど気をつけて使う必要があるという自戒の念くらいは持ったほうが良い。

長くなるのは遠慮したい。文字通り忘備録だと思ってください。レコード芸術はまだ店頭にあるだろう。吉田さんの文章だけ立ち読みしてみたらいかが?