季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

2009年01月08日 | 音楽
小林秀雄さんの講演がいくつもCDになっている。僕はカセットテープ時代から持っていてよく聴いたものだ。

最近、雑誌の付録に小林さんの講演集の抜粋が付いているのがあり、それを聴いた。ゴッホについて語っている講演の一部だ。これは聴いたことがなかった。しばらく情報漁りをしないと次々に出ているものだなあ。

雑誌ではちょっと前に触れた茂木健一郎さんが小林さんの孫、つまり白洲正子さんの孫でもある白洲信哉さんと対談している。改めて茂木さんというのは人気の学者なのだと思い知った次第。

読んだだけでは分からないけれど、白州さんはやはり身内のこととなると語りにくいのかな。素顔の小林さんを語るところなど、面白いのだが、白州さんの素のまま語ることが少ないように思う。やはり一文士として見る事ができにくいのかな。

小林さんが五味康祐さんと音楽対談をしたこと、それは出版させてもいることは書いたことがあるように思う。ここで小林さんが言っていることは、例によってたいへん直感的に正しいことなのだが、それは読む人が勝手に判断するだろう。

僕は、いつのことだったかもう定かには思い出せないのだが、ずいぶん繰り返し読んだ。五味さんが「原音」に近づくオーディオをどうしても求める、というのに対し、原音なんていうものは無いのかもしれないよ、と答える。だって実際にあるんですから、と抗弁すると耳だって聴きたいものに焦点を合わせるかもしれない、耳はカートリッジではないよ、とたしなめる件がある。

耳という精神の働きを機械的な現象に置き換えようとするのは間違いだ、というのである。

この対談を読んだとき、僕は五味さんの幼稚さにあきれた記憶がある。いま読み返しても、読み返すまでもないくらい繰り返し読んだのだが、感想は変わらない。

後年、たしかこばやしさんが亡くなったあと、誰かとの対談で五味さんが(五味さんは小林さんを尊敬していた)音楽に関して小林さんはねえ、と曖昧にだが批判めいたことを言っていたのも知っている。中島健蔵さんもそうだ。要するに耳が無いから、ということだ。

一流の文学者だってこうして耳があるだの無いだの言うしかないのです、演奏や音について書いたり言ったりしようと試みると。僕から言わせりゃ「このばかやろう」ということになるのさ。因みに「このばかやろう」とは、小林さんの「スランプ」と題する一文中の言い回しで、僕はそんなストレートな表現をいたしません。

話を小林さんと五味さんの対談に戻す。これを読んだときには小林さんが五味さんの意見をたしなめるのがとても厳しいと感じたものである。

それでも後年、対談全体がカセットで売り出されてみると、小林さんはたぶん酒も入っているのだろう、終始上機嫌である。ははあ、この人はこういう声も出す人なのか、と感慨深かった。

おそらく音楽が話題になっているときの声はこういった感じなのではなかったか。
その録音から起こされた原稿に手を入れて出版されるわけだが、なるほどこうやって活字にするのか。順序が入れ替わったり、表現が違えられたり省かれたりしている。それも面白く思った。

活字からは声が聞こえてこないのは当然かもしれない。でも、昔の和歌なんて、投稿するわけではなく、大昔は当然ながら、良寛の時代だって手紙にしたためたりするのが通常だったから、歌は当人の声とともに相手の心によみがえったわけである。

活字のみからの印象と耳に訴えかける印象の差、これはむしろ演奏に携わる人たちによく考えてもらいたいことである。


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