季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

エドウィン・フィッシャー

2008年06月28日 | 音楽
フィッシャーといえば、僕の世代ではバッハと相場が決まっていた。平均律の全集は、彼のものしか無かったのではないだろうか。

考えようによっては、僕にとっては幸せだったのかもしれない。今のように、みーちゃんも、はーちゃんも録音する時代だったならば、誰の演奏を手にするかは、ほんの偶然だから、どこへ連れて行かれるか知れたものではない。

僕は、フルトヴェングラー、フィッシャー、ケンプ、コルトー、カザルスといった面々の演奏を聴きながら、自身の音楽的感性、ものの感じ方を育ててきたのだが、この人たちはみんな、ある種の共同体というべきものに属していた。

他にもこんなものを売っています、という雑音がなかったのだから、やはり幸福だったと思わざるを得ない。

フィッシャーについて書くといっても、この人の音は、つまんで食べてしまいたいほど、ひとつひとつに質量感があったなあ、ということしかない。

この人のモーツァルトの協奏曲は、ちょっと速すぎるのではないか、とか言ってみる趣味は僕にはない。

チェロのマイナルディ、ヴァイオリンのシュナイダーハンと共にシューベルトの変ホ長調のトリオを練習している様子が聴けるのはうれしい。

これこそ音楽家同士の合せだと、膝を打ちたくなる。といっても、いったい何を言っているのか、よく聴き取れないのだけれどね。

だが、それでも音がすべてを語っているのだ。練習風景のほかにザルツブルグ音楽祭でのトリオの夕べの演奏会も一緒に入っているが、僕にはまず、この練習が面白い。ここではスタインウェイも奮いつきたくなるくらい美しい。極上の楽器と、それを活かせる名人だ。

1楽章を、ある程度まで演奏した後、侃々諤々が始まる。一番吠えるように話しているのが多分フィッシャーだろうな。マイナルディだと思われる声が、細かいところを打ち合わせしようとしている。

そのうち、フィッシャーが、もう良いではないか、先を弾こう、といった感じで2楽章の冒頭をひとりで弾き始める。ここの音を聴くだけで、演奏の質の高さが分かるのである。そこまでも充分に美しいのだけれど。

軽快なようで、孤独な、シューベルト特有の世界が、一瞬のうちに表れる。何小節かを繰り返していると、マイナルディが釣り込まれるように、美しいメロディーを奏でる。そんな呼吸の流れが実におもしろい。文字通り、音での対話が成り立つ。

ザルツブルグ音楽祭では、ウィーンフィルを率いて、モーツァルトのピアノ協奏曲を弾き振りしている映像も、ほんのひとこまだが、ある。これがまた、いろいろなことを考えさせてくれる映像なのだ。

ピアノは蓋を外され、尾部を舞台奥に突っ込んだ配置で、つまりフィッシャーは聴衆に背を向けた形で演奏している。

オーケストラの間奏部で、彼はピアノ用の椅子から立ち上がって指揮をする。その姿からは、演奏に対する迷いなどは一切感じさせない。オーケストラがウィーンフィルであろうとなかろうと、確信に満ちた動作である。

ピアノパートになると、当然腰掛けて弾き始めるのだが、その時の姿勢というか、所作も、指揮をしているときとまったく違わない。

これは当たり前のようでいて、そうでもないのである。

まず、自分の感じている世界に自信がないと、殊にオーケストラを前にすると、所作は曖昧になる。

もうひとつは直接ピアノを弾く技量に関係したことだ。ここでも揺るぎないものが無ければ、動作はぎこちないものになる。

そのことでふいに思い出したことがあるから、続きにする。一応フィッシャーⅡとするが、フィッシャーからは離れる。


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