ちょっと前にクーレンカンプと若き日のショルティがピアノを受け持った録音があると書いた。ショルティのピアノが大変上手だということも書いた。
ショルティは何度か実際に聴いたことがある。一度は耳慣れた北ドイツ放送管弦楽団を振ったものを聴いた。
この人を僕はまったく評価しないのである。身振りも爬虫類めいて、赤い舌をチョロリと出したら似合いそうであった。
演奏はただ圧しつぶしたような音を好んだのであろうか、やたらうるさく、音が持続しないのであった。
所謂クラシック音楽の演奏において音が持続しないのは致命的である。音楽はリズムによって分割されているのではない。時間の流れに沿って行くだけだ。
そもそも時間は流れているのか?こういった議論も当然ある。時間は得体が知れない。でもここではそんな面倒なことが言いたいのではない。
要するに音楽はただ「体験」できるだけのものだ。イン・テンポだろうが付点音符だろうが、すべては弾き手の中にあるので、外側から計れるものではない。トスカニーニを間抜けという理由はそこにある。
ピアニストとして立派な技量を持ちながら、ショルティはなぜ指揮者としてはあんなことになったか。あんなことというのは、もちろん世評とは違った評価だけれど。なにしろサーだからね。サーといっても卓球の愛ちゃんじゃないよ、サー・ゲオルク・ショルティだ。
先日紹介したクーレンカンプとの競演CDだって、今なお売れ筋なのは「あのショルティがピアノを弾いている」という触れ込みなのである。
昔から、たとえばブルーノ・ワルターもピアノの名手としてデビューしたのだし、そういう経緯で指揮者になったひとは少なくない。
ピアノをあまり上手に扱えずに指揮に転向したひとも当然いる。エッシェンバッハなどは指揮者になってからのほうが(少なくとも)自然になった。
僕はショルティがピアノを美しく弾くのにオーケストラになると別人のようにただアグレッシブで威圧的な音しか鳴らさないところに興味がわく。
ショルティはピアノというひとつの楽器の中に「可能性」が留まってしまうように感じたのではないだろうか。彼が指揮者に転じたのはそういう理由だったのだろうと推察する。
オーケストラを前にして彼は無限の可能性だけを求めた。有限の中にこそ無限が秘められていることを忘れ果てた結果、意志のごり押しのような演奏が出来上がったに相違ない。
オーケストラといえどもひとつの楽器のように、響き全体を聴かなければならない。それは割れてもいけないし、かすんでもいけない点で単独の楽器となんら変わるところがない。
各奏者が立派な弾き手であっても、その集まったものが立派なオーケストラとは限らない。
北西ドイツ放送管弦楽団は僕がいた当時常任が何度か代わった。テンシュテットが鳴り物入りで就任した時は失望した。カサカサ乾いた、それでいて押し付けがましい音がする集団にすぎなかった。後にギュンター・ヴァントが常任になって引き締まって表現力のあるオーケストラにようやくなった時、指揮者によってオーケストラは育ちもすれば衰退もすると身をもって(楽員でもないから変な気もするが)知った。
ヴァントを介して初めてひとつのオーケストラが音から変化するのを体験した。これは幸運だった。
ヴァントは所謂超人的な指揮者ではなかった。あえて言うなら二流の指揮者。そのかわり本物の二流だ。一流めいた指揮者ばかりいる昨今では分かりにくいかもしれないが、本物の五流の方が似非一流よりなんぼかマシなのである。
ショルティに関してある楽員が(どこのオーケストラか忘れたが)彼の肘の動きがすべてを台無しにすると言っていた。同感だ。あんな身振りでピアノを弾いたわけではあるまい。
ショルティは何度か実際に聴いたことがある。一度は耳慣れた北ドイツ放送管弦楽団を振ったものを聴いた。
この人を僕はまったく評価しないのである。身振りも爬虫類めいて、赤い舌をチョロリと出したら似合いそうであった。
演奏はただ圧しつぶしたような音を好んだのであろうか、やたらうるさく、音が持続しないのであった。
所謂クラシック音楽の演奏において音が持続しないのは致命的である。音楽はリズムによって分割されているのではない。時間の流れに沿って行くだけだ。
そもそも時間は流れているのか?こういった議論も当然ある。時間は得体が知れない。でもここではそんな面倒なことが言いたいのではない。
要するに音楽はただ「体験」できるだけのものだ。イン・テンポだろうが付点音符だろうが、すべては弾き手の中にあるので、外側から計れるものではない。トスカニーニを間抜けという理由はそこにある。
ピアニストとして立派な技量を持ちながら、ショルティはなぜ指揮者としてはあんなことになったか。あんなことというのは、もちろん世評とは違った評価だけれど。なにしろサーだからね。サーといっても卓球の愛ちゃんじゃないよ、サー・ゲオルク・ショルティだ。
先日紹介したクーレンカンプとの競演CDだって、今なお売れ筋なのは「あのショルティがピアノを弾いている」という触れ込みなのである。
昔から、たとえばブルーノ・ワルターもピアノの名手としてデビューしたのだし、そういう経緯で指揮者になったひとは少なくない。
ピアノをあまり上手に扱えずに指揮に転向したひとも当然いる。エッシェンバッハなどは指揮者になってからのほうが(少なくとも)自然になった。
僕はショルティがピアノを美しく弾くのにオーケストラになると別人のようにただアグレッシブで威圧的な音しか鳴らさないところに興味がわく。
ショルティはピアノというひとつの楽器の中に「可能性」が留まってしまうように感じたのではないだろうか。彼が指揮者に転じたのはそういう理由だったのだろうと推察する。
オーケストラを前にして彼は無限の可能性だけを求めた。有限の中にこそ無限が秘められていることを忘れ果てた結果、意志のごり押しのような演奏が出来上がったに相違ない。
オーケストラといえどもひとつの楽器のように、響き全体を聴かなければならない。それは割れてもいけないし、かすんでもいけない点で単独の楽器となんら変わるところがない。
各奏者が立派な弾き手であっても、その集まったものが立派なオーケストラとは限らない。
北西ドイツ放送管弦楽団は僕がいた当時常任が何度か代わった。テンシュテットが鳴り物入りで就任した時は失望した。カサカサ乾いた、それでいて押し付けがましい音がする集団にすぎなかった。後にギュンター・ヴァントが常任になって引き締まって表現力のあるオーケストラにようやくなった時、指揮者によってオーケストラは育ちもすれば衰退もすると身をもって(楽員でもないから変な気もするが)知った。
ヴァントを介して初めてひとつのオーケストラが音から変化するのを体験した。これは幸運だった。
ヴァントは所謂超人的な指揮者ではなかった。あえて言うなら二流の指揮者。そのかわり本物の二流だ。一流めいた指揮者ばかりいる昨今では分かりにくいかもしれないが、本物の五流の方が似非一流よりなんぼかマシなのである。
ショルティに関してある楽員が(どこのオーケストラか忘れたが)彼の肘の動きがすべてを台無しにすると言っていた。同感だ。あんな身振りでピアノを弾いたわけではあるまい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます