季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

休暇の過ごし方

2008年07月02日 | Weblog
昔ドイツでピアノを教えていたころ、ルネというドイツ人とイタリア人のハーフの男の子の生徒がいた。中学2年生くらいだったかな。

因みに、ドイツで教えていたときには、男の子と女の子の割合がほぼ五分五分だった。近頃は日本でも男の子が大勢習っているようだが。

ルネはあまり熱心に練習する生徒ではなかったが、その年頃の少年に相応しく、大人びた言い方をして、背伸びしたい盛りで、僕ともウマが合った。

お父さんがローマ出身で、ハンブルグの中心部でイタリアレストランを経営していた。でも一度入ったことがあるけれど、不味かったな。そうそう、ワインも頂いたことがあった。これも不味かった。

なんだか急に記憶がよみがえって(記憶とは不思議なものだ。暗譜なんていう作業をしていると、記憶のメカニズムについて、いやでも思いを致すのだ。ベルグソンというフランスの哲学者に「物質と記憶」という作品があります。読んでみると実に面白いです)計画とはまるで違うことを書いているな。

ルネが大人びた言い方を好む少年だった、というところまで戻ろう。さもないと、ワインの味だの、イタリア料理の味だの、僕には縁遠い話題に入り込んで恥をさらすことになりそうだ。

ある夏、2週間の休暇をとり、イタリアへ旅行しようと思い立った。僕は、家内も、旅行だからといって、あちこちを飛び回るのは嫌いだ。むしろ気に入った所があったならば、また訪れたい。

十年近くヨーロッパに住んでいたのに、結局フランスには行かなかった。これといった理由は無い。気に入った場所にまた行ったりしていると、なかなか他のところに行く機会もなくなるものだ。

つまり僕は、日本人としては格段にゆったりした日程を組む方だろう。2週間のイタリア旅行に際し、1週間ローマに滞在し、1週間フィレンツェに泊まるという計画を立てた。

「今度の休暇はイタリアに行こうと思っているんだ」「おお、それは嬉しいです。どこに行くおつもりですか?」「うん、1週間ローマ、1週間フィレンツェのつもりでね」

するとルネ君、映画などで手のひらを相手に向けて、肘から先を横にふって、きっぱりと「ノン」なんていうシーンを見たことがあるでしょう、ああいったしぐさで「だめです、重松先生」と言うのだ。

「ローマは素晴らしい都市です。フィレンツェも然り。どちらも1週間という短期間で見られるものではありませんよ。先生、どちらか一方にするべきです」

僕はなるほど、と考え込んだ。「ルネ、君の言うことはもっともだと思う。では今回はローマは諦めてフィレンツェだけにしよう」「それは賢明な判断だと僕も思いますよ」

こんなわけで僕たちの旅先からローマは消えた。その後も行く機会はまだない。

しかし、彼の言うことは正しかった。たった2週間でも、フィレンツェの町を隅から隅まで歩き、何べんも同じ道を通って同じ美術館に通ったわけだ。2,3日の滞在とはまるで違う、なんと言えばよいだろう、重みのある時間として記憶されているのだ。愛着が生じるとでも言おうか。良かったなあ、とはまた違った感覚だ。

ヨーロッパに行った人は皆、ゆったり流れる時間について語る。本当にそうだ。ヨーロッパの音楽家は、日本の石庭などの印象を語り、日本人はだから休符の扱いが上手なはずではないかと言う。

それは違うだろう。石庭の静けさは静止している。時間は流れない。まったく違った美意識から生じたものである。

僕たちがごく自然に感じるゆったりとした時間の流れは、物欲しげに次々と宿泊地を替えてゆく旅行しかできないうちは、我が物にならないかもしれない。

僕だって、人並みの好奇心はある。まだ見ぬ景色、人々への並々ならぬ関心はあるのだが。ローマへ行きたいよう。南極にも、火星にも行きたいよう。


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