今年はシューマンとショパン生誕200年だそうだ。音楽産業界では多分この時とばかりにイベントが相次ぐのであろう。
シューマン、ショパンその人がここで問題にされているのではなく、それをダシに一杯やろうという魂胆ばかり見えるといったらあまりに穿ちすぎていようか。
でもクリスマス、バレンタインデー、パリ祭等々それにボジョレー解禁なんかを入れて考えると、僕らの中のごった煮はずいぶんだと思われる。
宮沢賢治の詩の中に「どいつもこいつも一杯やりたい奴ばかりだ」とあったと記憶する。本当にそうだよなあ。基本的に町内会の集まりと大差ない。
それでもクリスマスやシューマンイヤーとかは、まあこの二つを一緒にしちまうなんて我ながら恐ろしい乱雑ぶりだと呆れるが、その機会に思いを新たにすることもあろうか。とても消極的に肯定してみればできなくもない。
バレンタインデーは彼岸の出来事だし、胸ときめかしている人々がいるから、その純情さに?免じておこう。
という風にやっていくと、何でもいいじゃない、と言うしかなくなりそうでしょう。そこだな、難しいのは。原理主義者たちの手にかかれば殆どが無意味で怪しからん話になってしまう。これはこれで味気ないばかりか危険である。
だが、何でもエエじゃないかとなるとこれまた違う。
シューマンという不幸な男を偲ぶ契機になるのであれば記念イヤーも結構だろう。しかしわが国でパリ祭なんて騒ぐ人たちを見ると、シューマンの不幸もそっちのけなんだろう。
横道に逸れるが、ドビュッシーに「花火」という曲がある。これこそパリ祭の賑やかさと関係がある。ただしその賑々しさを遠い出来事のように見るドビュッシーという男の姿を想像しなければいけない。
この曲は決して「たーま屋」「かーぎ屋」と賑わう両国の花火ではないのである。それには上がる花火が散発にすぎる。大輪の花火が花開いたあとの静寂にこそ作曲家は意を用いている。フォルテは謂わばピアニッシモを引き立てるように作曲されている。曲の最後にフランス国歌がかすかに聴こえると、すべては儚い夢だったのかもしれない、という放心したようなドビュッシーが浮かんでこないか。
話がまるでドビュッシーイヤーみたいになってしまったから急いでシューマンに戻ろう。
シューマンという不幸な男と書いた。なぜだろう。彼くらい世間的に幸せな男だといわれて然るべき人はそう多くはいないではないか。
才能があった。そしてそれに見合った社会的尊敬も勝ち得た(らしい)。その上クララと熱烈な恋愛の末結ばれた。そんな男を不幸な男というならば私はどうなる、と叫ぶ男たちがわんさかいるだろうね。
それでも僕はあえて不幸な男と呼ぶ。彼が神経衰弱に陥ったからではない。話はむしろ逆になる。
幸せなはずの男がなぜ神経衰弱にまで陥らざるを得なかったのかを想像してみなければ、何も言ったことにならないのである。
3流週刊誌めいたことではないよ。念のために言っておくけれど。
いや、そういう話もある、と得意になる人がもしいたら、その「うわさの真相」的才能は認めるさ。
では何が彼を不幸にさせたのだと訝る人には、それを想い、偲んでみるのが記念イヤーというものではないか、とだけ答える。まず自分の心に問いかけることだ。
シューマン、ショパンその人がここで問題にされているのではなく、それをダシに一杯やろうという魂胆ばかり見えるといったらあまりに穿ちすぎていようか。
でもクリスマス、バレンタインデー、パリ祭等々それにボジョレー解禁なんかを入れて考えると、僕らの中のごった煮はずいぶんだと思われる。
宮沢賢治の詩の中に「どいつもこいつも一杯やりたい奴ばかりだ」とあったと記憶する。本当にそうだよなあ。基本的に町内会の集まりと大差ない。
それでもクリスマスやシューマンイヤーとかは、まあこの二つを一緒にしちまうなんて我ながら恐ろしい乱雑ぶりだと呆れるが、その機会に思いを新たにすることもあろうか。とても消極的に肯定してみればできなくもない。
バレンタインデーは彼岸の出来事だし、胸ときめかしている人々がいるから、その純情さに?免じておこう。
という風にやっていくと、何でもいいじゃない、と言うしかなくなりそうでしょう。そこだな、難しいのは。原理主義者たちの手にかかれば殆どが無意味で怪しからん話になってしまう。これはこれで味気ないばかりか危険である。
だが、何でもエエじゃないかとなるとこれまた違う。
シューマンという不幸な男を偲ぶ契機になるのであれば記念イヤーも結構だろう。しかしわが国でパリ祭なんて騒ぐ人たちを見ると、シューマンの不幸もそっちのけなんだろう。
横道に逸れるが、ドビュッシーに「花火」という曲がある。これこそパリ祭の賑やかさと関係がある。ただしその賑々しさを遠い出来事のように見るドビュッシーという男の姿を想像しなければいけない。
この曲は決して「たーま屋」「かーぎ屋」と賑わう両国の花火ではないのである。それには上がる花火が散発にすぎる。大輪の花火が花開いたあとの静寂にこそ作曲家は意を用いている。フォルテは謂わばピアニッシモを引き立てるように作曲されている。曲の最後にフランス国歌がかすかに聴こえると、すべては儚い夢だったのかもしれない、という放心したようなドビュッシーが浮かんでこないか。
話がまるでドビュッシーイヤーみたいになってしまったから急いでシューマンに戻ろう。
シューマンという不幸な男と書いた。なぜだろう。彼くらい世間的に幸せな男だといわれて然るべき人はそう多くはいないではないか。
才能があった。そしてそれに見合った社会的尊敬も勝ち得た(らしい)。その上クララと熱烈な恋愛の末結ばれた。そんな男を不幸な男というならば私はどうなる、と叫ぶ男たちがわんさかいるだろうね。
それでも僕はあえて不幸な男と呼ぶ。彼が神経衰弱に陥ったからではない。話はむしろ逆になる。
幸せなはずの男がなぜ神経衰弱にまで陥らざるを得なかったのかを想像してみなければ、何も言ったことにならないのである。
3流週刊誌めいたことではないよ。念のために言っておくけれど。
いや、そういう話もある、と得意になる人がもしいたら、その「うわさの真相」的才能は認めるさ。
では何が彼を不幸にさせたのだと訝る人には、それを想い、偲んでみるのが記念イヤーというものではないか、とだけ答える。まず自分の心に問いかけることだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます