季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

マリア・グリンベルク

2008年02月01日 | 音楽
これも最近ひとから教えてもらったピアニストだ。シューマンの交響的練習曲のCD。僕は驚いてしまった。

異様なまでに長い息、深い深い響き、実に美しい演奏だ。演奏しているのはグリンベルグというロシアの女性である。ドストエフスキーの「白痴」にアナスターシャというヒロインがいるが、彼女を連想してしまう。深く、同時に気高くさへある悩み。迸る情熱。

リヒテルより少し上の世代らしい。西側にはあまり聞こえてこなかった人のひとりである。

この曲はテーマからして難しい。和音は強くてはいけないが、といって貧弱なのはもっといけない。グリンベルグの演奏はここでもう最上の演奏だと分かる。クレッシェンドの後のフェルマータ、こういう音型がピアノという楽器の一番難しいところだろう。音が暫時消えてゆく運命にある楽器から、長い響きを産み出さなければならないのだから。

ここでのグリンベルグの音は驚嘆に値する。いったいピアノという楽器と身体のどこにこんな音が隠れているのだ、といった驚きだ。

この調子で全曲の解説をするつもりではないのでご安心ください。関心のある方は是非聴いてごらんになることをお薦めする。

びっくりしてしまった僕は、他の曲の演奏も何が何でも聴きたいと思った。来る人みんなに吹聴していたら、メンデルスゾーンのファンタジーやベートーヴェンのアッパシオナータの録音を持っているという人があらわれた。

さっそく借りて聴いたのだが、どうも同一人物とは思えない。シューマンであれほどの懐深い、それでいて淀みない演奏をした人なのに、メンデルスゾーンやベートーヴェンでは何というかな、上等の自転車が錆びたように、どことなくぎくしゃくするのだ。

すみずみまでひどい演奏ならそこら辺にいくらでもころがっている。そういうのとも違う。また、どんな名演奏家でも作曲家による適、不適はあるものだ。そういう例もまた余るほど知っている。それとも違うのだ。なにか音楽自体をもてあましたような感じ。そんな経験はあまりないので僕はすっかり面食らってしまった。

解説によれば、シューマンの交響的練習曲は彼女の思い入れがとくに強かったそうである。解説者というものはそういった情報通みたようなところがあって好かない。思い入れが特に強ければ素晴らしくなるのだったら誰でもできそうだ、と横やりを入れたくなる。そんなことでこの落差が出来ているはずもない。何なのだろうか。


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2 コメント

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感想 (よしだ)
2016-07-03 02:07:53
初めて投稿させていただきます。マリア•グリンベルク演奏のシューマン、交響的練習曲を聞きましたが、本当に良いですね。グリンベルクの心の内から来る深い演奏によって、シューマンが今生きているように感じました。この様な演奏が出来たらどんなに素晴らしいだろうと思います。
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Re:感想 (dummkopf_1950)
2016-07-03 19:50:47
よしだ様

コメントをありがとうございます。
この人のベートーヴェンやメンデルスゾーンに対する戸惑いは本文に書いたので繰り返しませんが。シューマンの演奏は本当に美しいと思います。
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