ひとつ素朴な疑問を提出しておく。
吉田秀和さんにしても遠山一行さんにしても、あるいは他の音楽評論を生業にするひとにしても、演奏家を名指しで言うのは当然のことだろうけれど、自分以外の音楽評論家のことは,ある同業者とかで済ませているのはいったいなぜだろう。
文学評論家同士だったら,かならず名指しで褒めたり批判したりするだろう。
音楽評論家の世界はそういう習わしなのだろうか?他の音楽評論家を名指しすることが場合によっては(まあ多くの場合名前を出すまでの使われかたはしていないけれど。枕に使っている程度だけれど)あまり意味がないのも認める。
しかし例えば「(演奏)批評の混乱もここに極まれり」といった表現をするのであれば,その当の本人の名前くらい出せばよいと思うのである。
それ以上に思うのは、音楽評論家同士の批評がなされないというのが解せない。遠山さんなど、音楽評論も文学の一ジャンルだと、じつに正しい認識と覚悟をもっているではないか。
音楽を語っている評論めいた文章が、お世辞にも文章の体をなしていないことはよく知っている。論評するに足らぬということなのだろうか。
でも、彼らが肝腎なことをしないから、僕ごときが全面戦争をおっ始めなければならない羽目になる。
音楽に措いては演奏が批評である。その通りだ。僕の考えというより感想を端的に言えば、「十年の遅れ」ですこし触れたように、(今日では)演奏評は不可能であるということだ。むろん演奏評無しですまそうということではない。
演奏評が言葉による、言葉の解釈になってしまった以上、演奏評同士が批評し合い、おそまつな評が淘汰されることをまずは望みたい。
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