季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

ハノン

2008年12月31日 | 音楽
泣く子も黙るハノンについて。

といっても、技巧と題した文にコメントが付き、面白いからそれに対する感想を書こうと思ったが、それはまとまった分量の答えが要るので、返信代わりに書く。以下が寄せられたコメントの最初と最後の部分を省略したもの。


 技巧は数量化できそうにも思う。指を速く動かすというのは、運動だから、100メートルを何秒で走るか、というのと同じように計測して、達成度を数値化
できそうだ。技巧は言葉で記述できる。科学的に指の筋肉のメカニズムを解明するなどして、よい練習法が開発できたりするのではないか。技巧の習得は、音楽的な感性を育むことと直接の関係はないのかもしれない。
 ハノンなんて技巧を磨くためだけのもので、内容はないんでしょ。バイエルは上手く弾けるものだろうか。「上手く」とは美しく、聴き手を感動させるように、ということだが。ツェルニーや、ブルクミューラーは? 彼らの曲に対し、私は、少なくともモーツァルトやシューベルトと同じように耳を傾けることはできない。
 内容は言葉にしにくい。それについて語ろうとすると、洞窟の壁に映った影を追いかけているような心許なさがある。言葉自体が影なのか。

以上。
 
さて、いくつかの点を明らかにしておきたい。

指の動きを科学的に解明して良い練習方法を考案する、という点から。まあ不可能とは言うまい。筋肉のメカニズムという観点からのみ言えば。それでも以前「御木本メソッド」の胡散臭さに触れたことがあるけれど、ピアノを弾くことが全身の運動である以上、あらゆる筋肉の組み合わせを科学的に調べるのは実際上は不可能だ。少し前の西岡さんに関する文で紹介した「学問が材料に及ばないではないか」という言葉と呼応していると言っても良い。

そもそも、技巧は数値で表せそうな気がするというのは果たして正しいか。

100メートルを何歩で行くか、とか何秒かかるかは数値で表すことができる。同様に一定時間にいくつの音を弾けるかも数値で表せる。しかしこれが演奏に使える音質をもった音の数となるといっぺんに困難になる。音質というからには数値化が不可能である。そうなると、いくつ弾けたかを数値化できたとしても、それを計測できる人は音質を聴き分ける人に限られる。そしてそれができるような人は数値化しようなどといった無駄な努力をしないものだ。この点こそが御木本メソッドを胡散臭いという理由なのである。


ハノンで感動する奴はおるまい。ただしより美しく?弾くことは可能だし、そうしない限り何の練習にもならない。日本人のハノン信仰は恐れ入るほどだが、ほとんど全員が毒を飲んでいるようなものさ。メカニズムという言葉の濫用から来たものだ。薬と同様、使い方次第では役に立つ。僕でさえたまに生徒にさせる。簡単に言えば、といってもかえって分かりづらいかもしれないが、ああハノンだ、と分かるように聴こえていたら、それは害にこそなれ練習にはなっていない。

ブルクミュラーやチェルニーを美しく弾くことだって可能だ。もちろんバイエルも。ただし美しく弾くことと感動させることは必ずしも一致しない。感心させても感動はさせられないだろう。そこまでの作品ではないのだから仕方あるまいね。こればかりはどんな名人でも無理だろうね。ラフマニノフが心を込めてブルグミュラーを弾いた、という「現象」に感動することはあるかもしれないが。これはでも純粋に音楽的感動とはよべないな。

「やきいも」を美しく発音することはできる。だが、それに感動する奴がいないのと同じだ。「やきいも」は単語にすぎないというなら「やきいもは旨い。たらふく食ったらおならが出た」くらいの文にしてもいいさ。

感じの良いアナウンサーなら僕たちの誰よりも美しく発音できるが、感動する奴はおるまい。まあそんなことだ。

ハノンに限ったことではないが、技術そのものを目的にすることは無意味なのである。もっと正確に言えば言葉のあやにすぎない。しかしバイエルやブルクミュラーを美しく弾く技術は、道具と技量を兼ね備えたものに例えてよい。ここでできないことがモーツァルトやシューベルトでできるはずがない。

ハノンが好きな奴はおるまい、と書いて又してももしや、と思ってmixiの検索をかけたら、ハノンが好きで、気づいたら2,3時間経っているという人々が200人以上集まっていた!あらゆる先入観は持ってはいけないな。



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1 コメント

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感動 (伊藤治雄)
2008-12-31 15:05:00
「ラフマニノフが心を込めてブルグミュラーを弾いた、という『現象』に感動することはあるかもしれない…」には痛く同感。
 子供のピアノ発表会を聴きに来たお母さんが「感動」するのも、音楽そのものに、というよりも、それに付帯する環境や事情を含んだ出来事全体に、心を動かされるのだろう(晴れの舞台で年端もいかぬ我が子がよくぞここまで弾けるようになった、と感慨に浸るわけでしょ)。しかしそういった「現象」に対する感動と純粋な音楽的感動を区別することに、存外私たちは無頓着かもしれない。
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