季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

テレビ番組

2008年07月22日 | Weblog
僕はメンデルスゾーンが大変に好きである。

今書こうと思っていることは、しかしメンデルスゾーンの音楽についてではない。昔ドイツのテレビで見た番組についてである。

とはいうものの、もう僕の記憶には、それがどのような内容だったか、はっきりと残ってはいない。そもそも、僕はこの番組を冒頭から見たのであったか。テレビをつけたら偶然写っていたのではなかったか。

これは、フィンガルの洞穴を訪ねたメンデルスゾーンの旅程をふたたび辿って行く、という趣向だった。その詳細はすっかり忘れているが、そこには幸いなことにタレントもレポーターもいなかった。それだけでもヨーロッパのテレビ番組が日本のそれとは質が違うと言ってしまって良いくらいだ。

鮮明に覚えているのは、鉛色の海の上を、船が突き進んでいくだけの場面が続いていたこと。アングルは舳先が海水を切ってゆく様と、水脈とを交互に(といっても、決して頻繁にではなく)映し出す、ただそれだけである。

ナレーションは一言もなく、背景に「フィンガルの洞穴」序曲が流れていた。全曲、中断することなく流れていた。

音楽をバックグランドに流すこと自体は、なにも珍しいことではない。また、僕はそうした音楽の使い方を好ましく思っているわけではない。

しかし音楽のほうを主体に撮られた映像であっても、これは日本の放送でよく見られるけれど、演奏に、適当な美しそうな風景をあてがっただけで、僕はバックグランドより、はるかにいらいらする。名曲アルバムとかそういった類だ。

音楽と映像についての僕の否定的な見方にもかかわらず、僕が心を奪われたのは、映像が音楽の邪魔をしていない、じつに珍しい一場面だったからなのだと思う。

いや、そこではあの美しい曲が映像から直接出てきているようにすら感じられた。番組制作に携わったひとが「フィンガル」という作品に感動していることがよく伝わってきた、と言ったほうがよいかもしれない。

テレビが僕の生活の中に入ったのはかなり遅かったが、それでも何十年も経過している。この媒体の功罪をいろいろ言ってみても始まらないけれど、いずれにせよ、大変なインパクトの強さを持ってもいることは否定しようもない。

製作者は効果をより盛り上げようとあの手この手を尽くしている様子であるが、手を尽くしすぎて逆効果な場合が多い。

東ヨーロッパの共産国家が次々に崩壊し始めたころ、ポーランドで民衆が教会に通い始めたことを報じた映像は、実に印象深かった。薄暗く、霧が包み込んでいる、とある村の中に古びた教会が浮かび上がり、そこにつめかける押し黙った人の列だけが映し出された。ここでもバックグランドミュージックはなかった。小技に走ることが番組を盛り上げることだと、浅はかにも信奉している日本の番組だったら「沈める寺」でも流して白けさせたかもしれない。

でもこの映像は日本で見たはずだ。僕がいたころは、東欧の社会が崩壊するということは考えられもしなかったのだから。東ベルリンの喫茶店で、知人の東ドイツ人が政府を罵るのを聞いてもうっかり相槌を打つのもためらわれた。おとり捜査が日常だったからだ。

そうだ、日本で見たのに、あの映像にはバックミュージックはなかった。無音だった。人々が押し黙っている心がはっきり伝わる映像だった。それとも無音だったのは僕の記憶違いだろうか。あるいは僕の記憶どおり、配信されたものをただ流したものにすぎなかったのか。すべては遠い記憶になり、やがて忘れ去られる。

テレビの番組で心底感動することはほとんどないが、こうして幾つか印象に残ったものを挙げてみると、効果を狙ったものほど、テレビの力を表わせていないことが分かる。インパクトが強いだけに、いくらでもゆがめられるし、小技に頼りたくもなる。それが真実味を薄れさせる。

イギリスの自然番組などは落ち着きがあって、なんていうことはないのだが、気持ちがよい。風に吹かれて揺れる野の花が映し出される。聞こえてくるのはマイクにぶつかる風の音とミツバチのうなりだけ。そんな番組を思い出すと、自然にフィンガル紀行番組のことまで思い出す。



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