ドイツで下宿をはじめたとき、その時に自分の楽器を買ったのであるが、部屋があまりに良く響くので、すっかり嬉しくなってしまった。
古い大きな一軒家の2部屋と小さな台所を借りたのだ。部屋にはひとつタンスが付いているだけで、がらんどうだった上、板張りの床だから、響くなというのが無理な話だ。ハンゼン先生に選んで貰った真新しいスタインウェイはいやが上にも柔らかく響き、今思うといったい何を聴きながら練習していたのか判然としない。
判然といえばハンゼン先生のレッスンはお世辞にも分かりやすいとは言えず、手をあげろ(強盗ではないよ)と言われて一週間手をあげて練習していくと、なぜ手を高くするのだ、下げろ、と注意される。そうか、と下げて弾いていくと、なぜ下げる、手をあげろ、となる。文字通りお手上げで、そうかこの爺さん、ただただ耳で判断してものを言っているのだ、と分かったころにはすでに数年が経過していた。友人と、コンラート・ハンゼンを混乱と判然と呼び変えて憂さを晴らしていた。
今はレッスンについて書こうとしているのではない。僕の借りた部屋がよく響いた話であった。その後何回か引っ越したが、どの部屋も良く響いた。いわゆる吸音材などを使っていた家はないのだから当然だろう。
それでも最初の家は特に印象に残っている。一番気持ちよく響いた。大きなお屋敷街で、通りの向かいの家は、あまり遠くに建っていて、誰が住んでいるやら分からなかった。僕の部屋でピアノに向かいながら、ふと窓に目をやると、その家の庭と、その向こうに広がる森の緑が飛び込んでくる。ハンブルクはドイツで一番、富裕層が多いのじゃなかったかな。お屋敷街は半端ではなく立派だった。外は明るく静まりかえり(曇りばかり続くのに)時折石畳を通るバスの音がするだけだった。
日本での住宅環境といえば、畳に絨毯を敷き詰め、とにかく吸音することに意を用いていたわけだから、この違いは大きかった。
今日、室内の、それも音楽をする人たち用の音響環境は、少なくとも表面上大きく様変わりした。
防音室は(仮に小さくなったとしても)個別に売っているし、さまざまなデータを駆使して音響設計ができる。
そうしたことのうち、僕が気になるのは、響きすぎは練習にならない、というフレーズ、先入観である。
理想的に設計された部屋なるものは、楽器店にでも行けば見ることができる。耳触りが、どう言おうか、あまり出来の良くないリンゴにあたったことは誰でもあるでしょう、そして「ついていないなあ」と思う。これはかなりの味音痴にも、まず分かる感覚だ、そんな感じが耳にくる。
そういう乾いた響きでは練習できない、とはいわない。それは極端な言い方で、僕のような円満な人間は好まない。でも、わざわざ付加的な金額を出してそんな響きをつくり出すことを人に勧めるとしたら、これは問題だ。楽器店の回し者か、音楽をすっかり勘違いしているかの、いずれかだ。
響きがありすぎたら、それが耳に障らないように工夫すればよいだけのことだ。それどころか、そこから耳が養われるといって良い。
広いホールで困るではないか、と心配する人には、では東京ドームに住んだらいかが、と言っておく。そこでガンガンがなり立てれば安心感が増すかい?
技術を磨いていけば、自分の「今」いる空間での響きに合わせて弾くことを覚えていくものである。吸音材ですっかり艶を失った音ばかり聴いていて、どうやって艶のある音を造り出そうという意欲が湧くだろう。最初は、良く響くことに酔いしれるかも知れないが、それを恐れるな、と言いたい。臆病になるな。繰り返すけれど、酔うことを知らないものは、覚醒することもないのだ。
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