e411y(回顧録)

e411yの旅でのことを書き残しておきたいと思います。

二本盛

2012年02月05日 | 
実は昨日、もう1本空き瓶を片付けた。
この前と同じ“日本盛”。

空き瓶を並べてあるところに、日本盛が2本。
私はそれを見て、ホンマニ“二本盛”やなぁ~って思った。
ああ寒うぅ~
手水鉢に氷張ってるわ!

白鶴 淡麗純米

2012年02月04日 | 
本日の空き瓶片付けは、“白鶴 淡麗純米”。
@白鶴 淡麗純米
契約栽培米100%使用、安全・安心のこだわり純米酒
すべて国産の契約栽培米にこだわりました。酒造りで最も重要と言われる麹米(こうじまい)を「山田錦」の兄弟品種である兵庫県産「白鶴錦」に変更し、掛米(かけまい)には山口県産「中生新千本(なかてしんせんぼん)」を使用。厳選された米と六甲の自然水、白鶴独自の酵母(新のぞみ酵母)で仕込み、米のうまみを十分にひきだしました。ふくらみがあり、後味がすっきりした淡麗辛口の味わいをお楽しみください。

日本盛

2012年01月22日 | 
昨日、またまた空き瓶を片付けた。
今回は“日本盛”。
空き瓶を下げて歩いていると、思わず口から出たのは、
「日本盛は よいお酒~」

@日本盛
日本盛株式会社は、兵庫県西宮市用海町に本社を置く酒造会社ならびに同社が発売する酒造ブランドである。灘五郷の一角を担うメーカーとしてその名を知られている。
大関、白鹿などと並ぶ、日本酒の一大産地西宮市の有名酒造メーカー。
CMの「日本盛はよいお酒」のキャッチコピーでもよく知られている。これは初めてCM製作された1961年(昭和36年)から採用され、今に至っているものである。

剣菱

2012年01月14日 | 
今朝から空の一升瓶を片付けた。
親父の大好きな酒“剣菱”。
@剣菱酒造株式会社
兵庫県神戸市東灘区に本社を置く日本の酒造会社。
創業から今日にわたって、主として「剣菱」と「黒松剣菱」を製造し続けている。
灘五郷の一つ、御影郷に本拠を構える老舗蔵元。「ケンビシ」の愛称で親しまれる。
正確な創業年は記録が残っていないため不明だが、永正2年(1505年)頃の史料に「剣菱」という名の酒の記録があることから500年以上前から存在する銘柄。日本で最初に商品名が冠された酒でもある。
室町時代から大正時代にかけては伊丹市で営業していた。昭和4年(1929年)になって現在の神戸市東灘区に移転し現在に至る。
一時期、他社から酒を買い受け自社ブランドで販売するOEM(桶買い)により評判を大きく落としたが、再び自社で製造販売するようになり評価を取り戻している。
晩秋頃から仕込みを始め、春先から秋まで寝かせる「寒造り」と呼ばれる伝統的な製法を今もなお守り続け、吉野杉で造られた甑と相俟って濃厚な味わいときれのある口当たりに特徴がある。
ホームページを開設する有力酒造会社が多い中、当社は一貫してホームページを開設していない。

正暦寺の水

2012年01月11日 | 
先日(9日),TVのニュースに奈良・正暦寺の酒造りが映っていた。
正暦寺か~
母が入院していた病院から行ったことあったよなぁ~

@「菩提もと」清酒仕込み 伝統的製法を披露 奈良・正暦寺
「日本清酒発祥の地」として知られる奈良市菩提山町の正暦寺で9日、伝統的製法の「菩提(ぼだい)もと」による清酒の仕込み作業が行われた。同寺僧侶や酒造会社関係者ら約20人が取り組み、見学に訪れた観光客ら約200人は感心したように見入っていた。
同寺によると、菩提もとは近くの湧き水から採取した乳酸菌を使い、蒸した米と麹(こうじ)を合わせてつくる酒母(しゅぼ)で、500年以上の歴史を持つという。
この日は、乳酸菌を含む水に浸されていた約200キロの米が蒸され、湯気とともに独特の香りが立ちこめると、見学者から感嘆の声があがった。蒸し上がった米は麻布に広げて冷まし、麹を入れた水と合わせられた。約10日間発酵させると酒母が完成するといい、各蔵元が持ち帰り独自の酒に仕上げる。
家族と訪れた千葉市若葉区の建築士、関洋征さん(48)は「かつての日本酒はどんな味だったのか、想像しながら飲むのが楽しい。新酒を楽しみにしている」と話していた。

白鶴(瓶入りの酒)

2012年01月07日 | 
今年になって3本目の空き瓶。
そのほとんどを飲んだのは親父。
この親父、紙パックの(日本)酒は苦手やと言う。
この時代、どれだけの人が瓶入りの酒を飲むんやろか?
そんなことを考えながら、空いた瓶を片付けた。

@白鶴酒造
灘五郷の1つ、神戸・御影郷にある。
本社は兵庫県神戸市東灘区住吉南町四丁目5番5号。
本社の敷地に白鶴酒造資料館があり、団体旅行の見学コースにもなっている。
白鶴酒造は、京都・伏見の月桂冠とともに、日本有数の酒造メーカーである。
白鶴酒造を経営する嘉納家は御影郷でも指折りの名門であり、菊正宗酒造を経営する嘉納家は本家にあたる。白鶴酒造の嘉納家を「白嘉納」と呼ぶのに対し、菊正宗酒造の嘉納家を「本嘉納」と呼ぶ。
白鶴酒造(白嘉納家)は、同じ御影郷の菊正宗酒造(本嘉納家)や魚崎郷の櫻正宗(山邑家)とともに、旧制灘中学校を創設した。
7代目嘉納治兵衛が設立した白鶴美術館は中国古美術、中でも青銅器のコレクションでは世界的に知られ、日本一の私立美術館密集地帯である阪神間においても代表的存在となっている。

伏見の酒

2012年01月05日 | 
豊かな自然風土に育まれ、京文化に磨きあげられた伏見の酒。
その歴史は古く、日本に稲作が伝わった弥生時代に始まったとされています。
以来、脈々と受け継がれてきた酒造りの伝統が花開いたのは、安土桃山(伏見)時代のこと。
天下統一を果たした豊臣秀吉の伏見城築城とともに伏見の町は城下町として大きく栄え、京・大坂・堺に次ぐ人口6万人の大都市を形成しました。酒の需要も急激に高まるなかで、さらに改良も加えられ伏見の酒も一躍脚光を浴びるようになりました。
さらに、江戸時代になると、伏見は港町として発展し、とくに伏見と大坂天満の間に三十石船が上り下りするようになってからは多くの旅人が上陸し、伏見の酒は旅人の口コミで売れてゆきました。
やがて寛永十二年(1635年)参勤交代制度ができると、西国大名は大坂から船で伏見港に上陸し、しばらく逗留して、あらためて大名行列を整え東海道を江戸へ下っていくようになりました。このため伏見には多くの大名屋敷・倉庫・旅籠がならび、西国と東国を結ぶ重要な拠点となりました。造り酒屋の数も急増し、酒株制度のできた明暦三年(1657年)には酒造家83軒、造石高15611石と記録されています。
しかし、米が何よりも貴重であった時代、豊作・凶作による米価の変動を防ぐため酒の造石高は幕府により制限をうけ、経営困難になる蔵が続出しました。さらに幕府は灘や伊丹、池田を幕府直轄の酒造地として手厚く保護し、京の町へ伏見の酒が入ることを禁止したため、ますます伏見の造り酒屋は減っていきました。
幕末、天保年間(1830-43年)には、灘が40万石の生産量を誇ったのに対し、伏見は明暦の頃に比べると造石高は半減し、造り酒屋も三分の一以下になっていました。
しかも、明暦から幕末まで生きながらえ酒造業を続けてきたのは、たった二軒だけでした。その一軒が鮒屋こと北川本家で、もう一軒は笠置屋(現在の月桂冠)です。
伏見の酒の苦悩の時代はまだ続き、勤皇と佐幕に分かれて激しく衝突した「鳥羽・伏見の戦い」の巻き添えで、酒蔵のほとんど消失しました。
そして、明治になって伏見の酒は昔の勢いを盛り返し、天下の酒どころとして全国にその名をとどろかせるようになったのです。明治四十四年には農商務省主催の全国清酒品評会で出品28点のうち,入賞23点と全国最高位を占め、なかでも月桂冠は最優等の栄冠を博し、灘をアッといわせました。

梅乃宿 紅梅

2012年01月04日 | 
昨日は、妹夫婦が子どもたちを連れて年始の挨拶に来た。
義弟もかなりの酒好き。
先日の“九々鱗(くくりん)”が空になり、
次ぎに登場したのが“梅乃宿 純米吟醸 紅梅”やった。
せやけど梅乃宿もすぐに空いてしもた。

@梅乃宿 純米吟醸 紅梅
淡麗な中に純米ならではの芳醇な味わいと旨みを引き出したお酒です。
梅乃宿酒造 株式会社
創業/明治26年(1893年)
奈良葛城山の麓に創業以来今日まで「飲む人の心に語りかけるような酒」を念頭に少しの妥協も許さない酒造りに力を注ぐ。
酒造りの基本は良い原料と高精白。超軟水の葛城山系の伏流水を仕込み水に、南部流の技で醸す酒は柔らかく、きめ細かな味わいが持ち味です

屠蘇に九々鱗

2012年01月01日 | 
お正月・元旦と云えば“お屠蘇(とそ)”。
なにを飲もうかと酒蔵を物色し、“辰”年やから“長龍”の“九々鱗”に決めた!
“九々鱗”とは龍の異称。一列のうろこが81枚あるといわれるところから、こう呼ばれている。龍は鳳(ほう)、麟(りん)、亀(き)とともに4霊の1つとされ、雲雨を自由に支配する力を持つといわれる想像上の霊獣。このお酒も酒造好適米「山田錦」を100%用いて風格ある味わいをもった自信作として「九々鱗」という立派な名前が付けられたという。
“長龍”は、関西在住の方なら誰しも聞いたことがあるあのテレビCMあれから十余年、長龍は、奈良・広陵町に蔵を構え特定名称酒以上の酒を醸すようになった。準大手的なイメージの蔵が造りだす新生「長龍・広陵」は、これがあの「長龍」の系晋? と疑いたくなるような素晴らしい酒質で進化を認めざるを得ない出来栄えやった。

※屠蘇(とそ)とは、一年間の邪気を払い長寿を願って正月に呑む薬酒である。
「屠蘇」とは、「蘇」という悪鬼を屠(ほふ)るという意味である。数種の薬草を組み合わせた屠蘇散(とそさん)を日本酒に味醂や砂糖を加えたものに浸して作り、小・中・大の三種の盃を用いて飲む。昔から、「一人これを呑めば一家病無く、一家これを呑めば一里病無し」と言われ、伝統的な正月の祝いの膳には欠かせないものとなっている。

なにも足さない、なにも引かない

2011年12月31日 | 
歳月には力がある。歳月を養分にして、この琥珀色は滴った。だからピュアモルトの香りは、言葉に溶けてしまわない。はっきりと呟きが聞こえる。凛としたモノローグである。朴訥だが明晰。シンプルだが、奥が深い。なんという矛盾だろう。静謐があって、覇気がある。ゆったりと、鷹揚で、大きな流れと、縦横無尽に闊歩するものとが、同居している。なにも足さない、なにも引かない。ありのまま、そのまま。この単純の複雑なこと。
日本のウイスキーのふるさと山崎から
サントリーピュアモルトウイスキー山崎
1992年~1994年

高砂

2011年12月30日 | 
・島根の日本酒。酒名は、酒造地の地名と隣の土地がそれぞれ「白砂」「高崎」と呼ばれていたことと、謡曲の「高砂」にちなみ命名。大吟醸酒、吟醸酒、純米酒、本醸造酒、普通酒をそろえる。平成8、9、12年度全国新酒鑑評会で金賞受賞。原料米は山田錦など。仕込み水は自家井戸水。蔵元の「財間酒場」は寛政3年(1791)創業。所在地は鹿足郡津和野町中座。

・石川の日本酒。父祖が松任郷士・二階堂氏の末裔であったことから、酒名は松任の松に関係のある謡曲からとり命名。大吟醸酒、純米吟醸酒、純米酒、本醸造酒などがある。平成14、15年度全国新酒鑑評会で金賞受賞。原料米は五百万石など。仕込み水は白山を源とする手取川の伏流水。蔵元の「金谷酒造店」は明治2年(1869)創業。所在地は白山市安田町。

風の森

2011年12月29日 | 
創業は享保4年(1719年)以来280年、絶えることなく酒造りを続てきました。
風の森を醸す、油長酒造は、県下でも比較的大きな蔵でこれまで、普通酒を中心に造ってきました。
しかし本物の酒を造るべき吟醸酒専用の平成蔵を建設し平成10年4月より発売を開始しました。
風の森ブランドは、すべて手造り、しかもまったく濾過をせず割り水も行わない生原酒で出荷しています。
また2001年から、純米酒・純米吟醸・純米大吟醸の純米系のみの仕込みになりました。

森伊蔵

2011年12月10日 | 
森伊蔵(もりいぞう)は、日本の鹿児島県垂水市に本拠を置く酒造メーカー・森伊蔵酒造より発売されている芋焼酎のブランドである。
鹿児島産の有機栽培のサツマイモを原料とし、手間の掛かる伝統的なかめつぼ仕込みにより生産している。イモ臭さを除去したまろやかな味を特徴としている。「幻の焼酎」として知られる。「魔王」「村尾」と合わせて「3M」と呼ばれる。
公式の店頭販売価格は1.8 リットル入り1本2,225円で、日本全国65店の特約店での販売のほかに毎月15日に電話で申し込みを受け付けて抽選により販売が行われている。
かつては垂水市の生産元で直接販売もしていたが、発売日に日本全国から人が集まるようになり、警察が出動するなどの騒ぎになったことから電話受付となった。電話受付になってからも、2時間に100万本を超える電話が殺到してNTTの交換機がハングアップする事態を引き起こしたため、1999年からは電話で受け付けた中から抽選で販売するようになっている。この電話による抽選は、確率約0.2 パーセントとされている。

御代菊;喜多酒造

2011年11月16日 | 
先日,橿原神宮あたりをブラブラ。
野球場では何かの大会の決勝?
道路をはさんでお酒屋さん?
道路を渡って近づいたけど,日曜日の早朝で閉まってた。
「御代菊」ってどう読むんやろ?
「みよきく」か~

@喜多酒造HPより
喜多酒造は享保三年(1718年)、大和三山に囲まれた、奈良橿原の地で創業いたしました。
創業者の酒屋利兵衛は、生来のこだわり者であったと伝わっております。
そのため、水と米を選りすぐり、己の納得いく酒が出来るまで、酒屋として旗揚げをしなかったといわれています。
そんな創業者の意思を受け継ぎ、私たちは三百年に及び「良い酒とは何か?」ということにこだわり続けてきました。その歴史を通じて私たちが思う、良い酒とは、
目立たなくても存在感のある酒。飲んだ人の心に残る酒。
ではないかと、考えております。
これからも私たちは、良い酒を造ることに、そしてそれを伝えてゆくことを大切にしたいと考えております。

ハイボール

2011年11月13日 | 
開拓時代のアメリカにおいて、蒸気機関車による長距離移動のときに、途中で水の補給のための停車の際、棒の先にボールをつけたものを掲げて合図した。
そのときに、バーボンのソーダ割りのサービスがあったことから。