e411y(回顧録)

e411yの旅でのことを書き残しておきたいと思います。

竹田城跡

2012年09月06日 | 
竹田城跡【朝来市HPより】

竹田城跡は、天守台を中央に南千畳・北千畳・花屋敷が放射線状に配され、

城の築かれている山全体が、虎が臥せているように見えることから「虎臥城(とらふすじょう・こがじょう)」とも呼ばれています。

JR竹田駅から見上げると石垣の辺りは虎の背中、尾根伝いの山が首や頭にあたります。

標高353.7メートルの山頂に位置する竹田城跡は、嘉吉年間(1441-43年)に但馬の守護大名・山名宗全が基礎を築いたとされ、

太田垣氏が5代にわたって城主となりましたが、織田信長の命による秀吉の但馬征伐で天正8年(1580年)に落城。

最後の城主・赤松広秀が豪壮な石積みの城郭を整備したと言われます。

縄張りの規模は南北400メートル、東西100メートルにおよび、完存する石垣遺構としては全国屈指のもので、

平成18年には日本城郭協会により「日本100名城」に選定されました。

自然石を巧みに配置した近江穴太衆による石垣は、400年を経た今でも当時の威容を誇っています。

また、竹田城跡周辺では秋から冬にかけてのよく晴れた早朝に朝霧が発生し、但馬地方の風物詩となっています。

雲海に包まれた竹田城跡は、まさに天空に浮かぶ城を思わせ、この幻想的な風景を一目見ようとたくさんの人々が訪れます。



鶴丸城

2011年12月22日 | 
鹿児島城は、鹿児島県鹿児島市城山麓にあった城である。
鹿児島では一般的に古くから「鶴丸城」(つるまるじょう)と呼ばれている。
「鶴丸」の呼び名の語源は島津家の家紋が「鶴丸の紋」であったことによる。
城跡は鹿児島県史跡に指定されている。

江戸時代初期に島津氏によって築かれた、上山城跡である城山とその麓に築かれた鶴丸城で構成された平山城である。平城や山城とする説もある。

城山は、南北朝時代には「上乃山城」および「上山城」という上山氏の居城であったが、後に島津氏に明け渡され、上山氏は桜島に移っている。
その後島津氏は城山の東麓に屋形を築いて居城した。麓の屋形(本丸、二ノ丸、出丸)には石垣が築かれたが、公称「77万石」の大名の城としては天守など高層建築や高石垣などは築かれず、明治時代に城跡を訪れた本富安四郎は著書『薩摩見聞記』で「不思議」と評している。これには江戸幕府に対する恭順の意味があったとされる。その代わりに、島津氏は中世式の山城を各地に残し、113区画をそれぞれ家臣に守らせる外城制度を行っていたとされる。

本城である鹿児島城は北に本丸、南に二の丸が位置していたが、単純な構造で防御には問題のある「屋形造」の城であった。そのため裏山である城山を籠城のための「後詰めの城」としていた。初代の城代として島津歳久の孫の常久が任命されて居住していたが、常久が早世した後は次の城代は任命されず、城山自体が聖域として立入禁止区域となった。

明治6年頃には「御楼門」という大手口の櫓門と1重2階の兵具所多門櫓、角櫓(隅櫓)、書院造の御殿などがあった。御楼門と兵具所多門櫓、角櫓の様子については明治初期に撮影された写真が現存する。

津山城

2011年07月26日 | 
津山城のある鶴山に嘉吉年間に美作守護山名教清の一族山名忠政が築城した。
応仁の乱後山名氏も衰え、文明年間に廃城となり、以後神楽尾城の支配する地となった。

慶長8年、関ヶ原の戦功により美作一国186,000石を領して、森忠政が信濃川中島(松代)から入国した。忠政は、鶴山に新城を築城開始するが、大坂の陣や幕府からの築城夫役のため、13年の歳月をかけ元和2年に完成した。
森氏は、忠政-長継-長武と続き、元禄10年に4代長成が死去し、5代衆利が 相続のため江戸出府途中に死去、このため森氏は改易となった。
しかし、2代森長継は存命であった。幕府は、改めて長継を取り立て備中西江原2万石に封じた。その後、森氏は宝永3年に播州赤穂へ移封となった。
元禄11年、越前松平氏嫡流家の松平宣富が津山10万石に封じられた。以後、松平氏が津山を動くことなく、9代続いて明治に至った。

亀山城

2011年07月04日 | 
亀山城は天正18年(1590)岡本良勝によて築城されて以来、歴代藩主により城郭も整えられた。当初は三層の天守閣があったが、寛永9年(1632)に幕命により解体され、正保年間(1644~47)天守台に多聞櫓が築かれた。

天守南西の高石垣は直高14.5mもあり、野面石(自然石)を牛蒡積みとした中くぼみの扇形勾配で、堅固・優美さを整えており、四百余年の風雪に今も耐えている。
白壁の櫓・門・土塀等を連ねる景観を蝶の群が舞う姿に例えられて「粉蝶城」とも呼ばれた。
亀山は東海道の要衝であるので、江戸時代前半には幾度も城主が交代したが、延享元年(1744)六万石で石川総慶が入封後は、明治まで11代120余年、石川家が続いた。
明治以後、城郭の大半が破却され、現在は天守台・多聞櫓・外堀・土塁の一部が残るのみであるが、多聞櫓は県下で唯一現存する城郭建造物として、昭和28年三重県史跡に指定された。     
亀山市教育委員会(現地案内板より)

大和郡山城の桜

2011年03月27日 | 
御殿桜は天正13年(1585年)大納言豊臣秀長が姫路から郡山へ入部、多武峰の談山神社を城北に遷座、その堂宇と供に多武峰にあった桜樹も城内に移したのがその始まりと伝えられています。

享保9年(1724年)柳澤吉里が甲府より郡山に国替えとなり、入城してから桜樹の補植があって、そのとき以来毎年春の開花期には、藩士や町民達の楽しみであったといわれています。

やがて明治となり城郭が全て取り払われたが、旧藩士達が明治13年(1880年)本丸に藩祖柳澤吉保を祀る柳沢神社を建てて、その周辺に旧藩邸の桜樹を移植し又更に数百株を補植しました。そして毎年、かがり火をたき春宵一刻を 楽しむようになりました。これが夜桜の始まりであり、その後明治44年(1911年)に至り、 樹齢も次第に老境に入り花の姿も衰えてきたので、当時の町長三木忠方は、町民に呼び掛け寄付金を募り桜樹3000本を新しく城址一円に植えるとともに、かがり火を電灯(ぼんぼり)に替え、大正10年(1921年)大軌電車(現在の近畿日本鉄道)の開通により遠く大阪方面からも見物客が訪れるようになりました。


伊賀上野城

2011年02月26日 | 
昔、上野盆地の北側に聳える丘の上に「平楽」と云う伽藍があったが、1581年(天正9年)織田信長の「伊賀の乱」で焼かれて、1585年(天正13年)筒井定次が大和郡山より伊賀に移って築城したのが始りで、1608年(慶長13年)彼が失政を理由に改易となった後、大阪方に備え、築城名人藤堂和泉守高虎が城郭を拡張し、西側に日本一高い石垣を築き、また、町屋を南へ移し、完全武装の城下町を造ったけど、1612年(慶長17年)9月2日竣工直前の天守閣が暴風雨で倒壊し、その後、大阪夏の陣で豊臣方が敗れ、城の必要性がなくなりました。
なお、城は津の支城で、1615年(元和元年)武家諸法度による城普請の禁止により、再び建てられる事はなく、1640年(寛永17年)から城代家老の藤堂采女(服部半蔵の甥)が預り、明治維新を迎え、そして、昭和10年川崎克代議士が私財を投じ、3年の歳月をかけ、往時の基台に桃山建築の粋を集めて、三層三重総丈76尺(23m)を模擬復興され、我が国で最後の木造天守閣です。

碧緑の上に見える城郭の美観は、あたかも鳳凰が翼を休めた安らぎを思わせるので、雅名を「白鳳城」と呼ばれ、高虎が自ら縄張りをした濠は深く、築かれた石垣は高さ31mで日本一高く、梯郭式の堅固な城は昔五層の大天守閣でした。

大阪府警で冬の陣

2011年01月31日 | 
大阪府警前で見かけた「大阪冬の陣」の解説板。
今の大阪城は,秀吉が建てたものでない。
もちろん,今のお堀も・・・
今まで家康の城を眺めて,秀吉を偲んでいたんやろか・・・

http://www.oumi-castle.net/gensetu/oosakajyou/gensetu.htm

大阪城公園の虹

2011年01月25日 | 
JR玉造駅から歩いて大阪城へ。
大阪城公園の入り口に到着したら,迎えてくれたのが「虹」やった。

お城を見に来たはずの観光客も,噴水にできた虹を記念撮影。
その中には外国人の方もいた。

篠山城

2010年09月01日 | 
昨日は折角の高速道路無料区間を利用し,前回食べ損ねた蕎麦を食べに丹波篠山へ。
丹波篠山は城下町。
篠山城は,慶長10年、常陸笠間より丹波八上城へ入った松平(松井)康重は、慶長13年に徳川家康の命により篠山に築城した。
家康は、関ヶ原の合戦に勝利した後、豊臣恩顧の西国大名の勢力を削減して徳川幕府の確立のため、戦略の要衝の地に天下普請で築城した。
篠山城もその一つ。
(篠山城以外に、膳所城・彦根城・丹波亀山城・名古屋城・越後高田城などの諸城がある。)
篠山城築城には、普請奉行に池田輝政が命じられ、藤堂高虎の縄張りにより西国大名の天下普請で築かれたという。
城としては中規模やけど、城郭建築の技術が最高に高まった時期に、しかも天下普請として幕府の威信もあったんやろなぁ~
今に残る石垣群を見てると、この城の堅固さを改めて認識させられた。
せやけど・・・昨日も酷暑。
落ち着いて見学出来るような気温でなかったのが残念やった。
「写真;篠山城」

一乗谷朝倉氏遺跡

2010年08月30日 | 
今回,福井で観たかったのは,「一乗谷朝倉氏遺跡」。


一乗谷は、福井市街の東南約10kmにあり、戦国時代朝倉氏の城下町の跡がそっくり埋もれていたという。

「一乗谷朝倉氏遺跡」は、今から約500余年前の文明3年(1471)、戦国大名・朝倉氏が5代103年間にわたって越前の国を支配した城下町跡。
最盛期には、人口1万人を超えたといわれ、雄大な城下町と雅やかな文化の華を咲かせたという。
しかし、朝倉氏は天正元年(1573)に織田信長に敗北・・ ・

火を放たれ、その長い歴史の幕を閉じた。
そして、昭和42年、初めて本格的な発掘調査が行われて以来、当主の館や武家屋敷・寺院・町屋・職人屋敷や道路に至るまで町並がほぼ完全な姿で発掘された。
昭和46年には、国の「特別史跡」に指定、平成3年には朝倉氏遺跡内の4つの庭園が、国の「特別名勝」にも指定されている。


車を停めて,昔を偲ぼうと思ったけど・・・


車から一歩降りたら,あの暑さ・・・


すぐに屋外の熱気がムッときて・・・


サウナに入ったように汗が噴き出して・・・


兵どもが夢の???

これは 熱中症やろか?

「写真;朝倉館に建つ唐門」


千早城

2010年08月30日 | 
あの日,ざる蕎麦を食べながら「千早城」を研究。

すると600段の急な石段を上らなければならないことが分かった。

そでに今日は,「下赤坂城」と「上赤坂城」に登っている。

さらにこれから600段の石段・・・

今,ざる蕎麦を食べているお店から登山口まででも,結構な距離があるしなぁ~

資料を読むと,「千早城」には,現在 「千早神社」が建てられていて,城址を残す場所は少ないらしい・・・

お城に登るのやめとこかなぁ~

お店の下を流れる谷下の流れは,釣り堀になってるようやし,マス釣りもええやろなぁ~

釣ったマスを焼いてもらって,冷えたビールをグイッと・・・

お店から登山口へとブラブラ歩きながら,いろんなことを空想してた。

600段の石段?

予想以上にキツかった~~!

以下は資料の文

【千早城は、楠木正成の挙兵・籠城の地として余りにも有名です。上赤坂城を楠木氏の本城とすれば、こちらは詰城となります。赤坂城砦群と一体的にとらえて千早・赤坂城砦群の奥の拠点として位置付けることも出来ますが、平野部に対する眺望がきかず、山間に隠れた存在で、上赤坂城のような地域支配機能はありません。

城は、金剛山の一支脈が西に流れて、その末端が一つの半独立峯を成している標高673,9mのところにあります。周囲を妙見谷、風呂谷 、千早谷の深い谷に囲まれ、南東部一か所のみが険しい山路で金剛山頂に連絡しています。府道から500段程の段を登ると四の丸に達します。そこからは三の丸、二の丸へと続き、二の丸跡には千早神社があり、八幡大菩薩とともに楠木正成・正行父子が祭られています。その後方は、俗に本丸と呼ばれ、西寄りが一段高く石垣の段がありますが、これは近代の楠権現の跡です。しかしその回りを本丸続きの帯曲輪が取巻き、二の丸と三の丸の鞍部にはかつて空掘跡があったといわれていますが、今は確認できません。四の丸の西下には大手道を両側からは道がまわり、その下のルートで結ばれる南尾根の曲輪には府立存道館、府立山の家が建って変形されてい ます。

この城は、元弘の変に際して楠木正成が下赤坂城を放棄したあと、翌年の元弘2年(1332)に築城したといわれています。元弘3年には鎌倉幕府の大軍がこの城に攻め寄せ、楠木軍が様々な奇策を用いて戦った様子が「太平記に記されています。籠城のための水は、山伏が使う金剛山中の秘水や雨水を蓄え、万全の策を取ったようです。兵糧は、金 剛山を越え間道伝いに奈良や和歌山から、農民・兵士・山の民により運び込まれたようです。軍資金は、所領七千貫を主なものとし、摂津・河内から大和に至る交通の要所を支配下におき、分業・交通のルートを掌握して冨を蓄積しました。その他にも水銀の採掘(くろとが谷)等により得たようです。

正成亡き後、南朝軍の拠点として正行・正儀・正勝がこの城に籠りましたが元中9年(1392)5月、足利義満が兵を遣して金剛山を攻め、正成がこの城を築いてからおよそ60年後、正勝の時代に攻め落とされました。】

「写真;千早城址」


上赤坂城

2010年08月30日 | 
あの日,建水分神社を出て道幅の広い農道を走ると「上赤坂城」への表示が出て来た。

車を駐車場に停めて登山の準備。

本丸まで約20分という看板が立っていた。

片手にはPCでプリントアウトした紙。

下調べもせずに来てしまったので,その紙を読みながら城への坂道を歩くのだ。

以下は,プリントアウトした文章

【「上赤坂城」は、金剛山の支脈の一つで、西北にのびる 標高349.5mの峰にある。

この城は別名楠木本城とも言われている。

城の北側は足谷川、東は井戸の谷、西は城の谷という深い谷に三方を囲まれ、南一方のみが樵路で山づたいに金剛山へと続いている。

北側の城の谷から登る城坂が大手口で、二の丸(東の城)の西側を通り、茶碗原を経て坂を登ると本丸に出る。

茶碗原は陣屋跡で、炊事場のあったところといわれ 、石臼や土器が出土している。

本丸は平坦な台地で千畳敷とも呼ばれ、東・西・北の展望が開け、六甲山や淡路島まで見渡すことができ、点在する出城との連絡が簡単に取れたようだ。

城郭は本丸と二の丸の二つの郭を核に、それぞれ大手方面の尾 根に段下りに連郭している。

茶碗原からも谷に向かって曲輪を重ねているが、蜜柑園として開墾されたこともあり、今は不明瞭になっている。

それぞれの尾根は堀り切られ、特に大手道の通る「そろばん橋」は、二重堀切で土橋状になっているが、元は土橋がなかったのかもしれない。

これらの堀切は相互に連ねていくとほぼ等高の 防御ラインを形成する。

元弘2年(1332)秋の楠木正成の第二次挙兵は、千早城とともに上赤坂城に籠城して戦われたが、鎌倉幕府軍に包囲されて翌年2月に上赤坂城が落城、千早城だけが耐えてついに守り抜いた。

建武政権の崩壊、正成の死後、貞和3年(1347)子の正行を中心に南軍が東条谷に集結して北進、翌年正月、四条畷の戦いで正行が敗死、

弟正儀が赤坂に退いて1年6か月間、高師泰らの北軍と対峙した。

この時が赤坂城塞群整備のピークであったと思われる。

正平14年(1359)、赤坂一帯が再び攻防の拠点となり、翌年5月上赤坂城が落城した。

守り手は最後の詰となる金剛山頂との連絡を軸に城塞の網をはりめぐらし,攻め手はそれと競合しつつ向城の網をはって上赤坂城に攻撃を集中するというのが戦術の基本で、正成の挙兵時以来この形を踏襲して城塞群が発達した。

この城は立地上、金剛山麓の城塞群の中枢という面だけでなく、東条谷一帯の地域支配の拠点として典型的な国人居城の特徴を有しているので、南軍の拠点という歴史的背景がなくなって以後も使われたと思われる。(千早赤阪村史・日本城郭体系12より)】

プリントアウトした文を読みながら本丸への坂道を歩いたら・・・

なにがなにやら???

中世のお城は難しい・・・

この城で出会ったのは,初老の男性3名のみ。

本丸から大阪平野を望みながら,全国各地の城と武将の話をずっとしておられた。

「写真;上赤坂城本丸跡」


下赤坂城址

2010年08月30日 | 
奈良県と大阪府の県境,

葛城山と金剛山の間にある水越峠を越えると,

「千早赤阪村」という大阪府内でただ一つの村がある。
この村は楠正成の生誕地。

彼は,鎌倉幕府討幕の計画を企て,

京都を出た後醍醐天皇の行宮・笠置にいち早く馳せ参じ,

南朝方の忠臣として活躍した武将。
「下赤坂城」は正成が挙兵した城。

500余の精兵で幕府方の大軍を迎え撃ち、よく耐えた。

戦の様子は『太平記』で詳しく語られているという。

現在,城址には中学校が建っている。

私は車で城址への坂道を上ろうとしたが,中学校の敷地?に入ってしまい,

学校に迷惑をかけてはいけないと戻り,

下のバス停横に車を停め,再び歩いて登った。

校舎と校舎の間を抜けると丘の上に「赤坂城址」の石碑が見えた。

一番上まで歩いて辺りを見ると,石碑近くに駐車場があり,

そこに数台の車が停まってるやんか~

少し損した気分・・・

カメラを持った初老の男性たちの姿を発見!

「やっぱり楠公さんは人気があるから・・・」

はじめはそう思ったけど,

その男性たちの目的は,日本の棚田100選に選ばれている 「下赤坂棚田」やった。

私,自宅の田植えを終えたばかりやけど・・・

なんというか・・・

兵どもが夢のあと?

気が付けば,私も夢中で棚田の写真を撮っていた。

「写真;下赤坂城と棚田」


高取城の猿石

2010年08月29日 | 
“高取城”に登りたかった理由のひとつに、“猿石”を見たいというのがあった。

飛鳥には、いつ、誰が、何のために造られたのかわからない謎の石造物が数多くある。
“猿石”は、江戸時代・元禄15年に欽明天皇陵の南の田んぼから掘り出され、うち4体は現在の吉備姫王墓に、もう1体は高取城跡へ運ばれたと考えられる。
(高取・光永寺門前の「人頭石」、橘寺境内の「 二面石」も猿石か?)
『今昔物語』に「軽寺南方の天皇陵の堤にあった石の鬼形」として載っており、“猿石”はもともと欽明天皇陵の堤に置かれていたそうだ。

私は、吉備媛王の墓前の猿石(「女」「山王権現」「僧」「男」)を見たことがあるのだが 、高取城の“猿石”は見たことがなかった。

写真を見ると、この石が一番“猿”に似ているらしい。

高取の“猿石”は、城の境界の標の様。

高取城築城の際、石垣にするつもりで運ばれて来たという説があるそうだ。

高取城の天守閣跡に立ち、遙か遠くに霞んでみえる吉野・大峰・大台の山々を眺めたあと、次は“猿石”と思ったが、その石が置かれている正確な場所を調べて来なかったことに気づいた。

ヒントは、「城の境界」。

今、車を停めて上って来た道には無かったわけだから、違う方向へ下山しなければならない・・・

ここは日本で最大規模を誇る山城、車でお城の裏側から上ってきたわけやから、城下町へと下りるお城の表の境界は遠いんやろなぁ・・・

憧れの“猿石”に逢うためなら、1kmほどは逆の方向に下山しようと覚悟を決めた。

しかし、その道にも「蜂・毒蛇・倒木に注意!」の立て札が・・・

それに、“猿石”見たら、また下った同じ道を上ってこんなあかんねんなぁ~

その山道には草木が繁り、蜂の羽音、蜘蛛の巣と猪のあと、割れた瓦や瀬戸物、調べた記事では“落ち武者の亡霊”も出るという・・・

誰一人出会わない高取山、草が繁り石垣残る城跡の道を歩いたのです。

だから“猿石”見つけた時は、ウレシカッタ!

でも・・・イキハヨイヨイ カエリハコワイ・・・

「写真;猿石」

高取城

2010年08月29日 | 
“高取城”について調べていると、次の文に出会った。

【 高取城は、石垣しか残っていないのが、かえって蒼古としていい。その石垣も数が多く、種類も多いのである。登るに従って、横あいから石塁があらわれ、さらに登れば正面に大石塁があらわれるといったぐわいで、まことに重畳としている。
 それが自然林に化した森の中に苔むしつつ遺 っているさまは、最初にここにきたとき、大げさにいえば、最初にアンコール・ワットに入った人の気持ちがすこしわかるような一種のそらおそろしさを感じた。
 司馬遼太郎 街道をゆく 大和・壺坂道 城跡の森 より抜粋 】

んん~ アンコール・ワットかぁ~ 本物を見てみたいなぁ~

せやけど、高取城もええ感じなんやろなぁ~ 

車道終点に車を停め、細い坂道を登りだした。

すぐに“七ツ井戸”という立て札。

標高約600mの山の山頂直下で、水を確保するために井戸を掘る・・・

昔、イタリアを旅したとき、町が丘陵(山?)の上に建てられているのに驚いた。

その町を見て、飲み水をどうすんねんやろか?という疑問が湧いたのを思い出した。

急な坂を歩きながら山頂を見上げるとお城の石垣の一部が見えてきた。

ワクワクドキドキ!

開けた場所に着いて、石垣を登るための石段を上った。

めっちゃ気持ちええ!

その場で360度の展望を・・・

分かったことは、今立っている場所が天守閣のあった山頂ではなかったということ。

どおりで石組みの規模が小さいと思った。

27の櫓と33の門で守りを固めたこのお城は、本当はまだまだこれからなんやぁ~

※高取城について
資料によると「高取城は1332年(元弘2年)越智邦澄が護良親王の挙兵に応じて高取山(標高584m)に築城した「掻揚げ城」が初めで、織田信長の「一国一城」令で一度破壊された後、1584年(天正12年)郡山城主の筒井順慶が詰城として整備し、後に豊臣秀長が大和へ入国した時、脇坂安治が入城して、次いで秀長の命によって、1589年(天正17年)本田利朝が石塁を築き、本丸に大小の各天守閣を起こし、多くの城門を連ねて櫓楼も配され、山城に平城の長所を取り入れた堅固な城を完成して、本田氏が断絶の後、1640年(寛永17年)植村家政2万5千石が入部しました。
 また、芙蓉城、鷹取城とも呼ばれ、日本三大山城中随一の「高取城」は、麓からも眺められ、「たつみ高取雪かと見れば 雪でござらぬ土佐の城」と歌われ、明治4年の廃藩まで232年間14代続き、明治中頃廃城した。
 幕末の1863年(文久3年)8月に天誅組が五條代官所を襲って代官鈴木陣内以下5名を血祭りに挙げ、千余名でもって、8月26日婦女と子供を加えた約五百名が守る高取城を攻めるべく押し寄せたが、大阪夏の陣で活躍した大砲を麓(鳥ケ峰)に据えて退却しました。」とのことである。

「写真;高取城大手門跡