e411y(回顧録)

e411yの旅でのことを書き残しておきたいと思います。

生石神社;牛馬守護お守り

2011年10月03日 | 自宅から西へ
この牛馬守護のお守りは,
今でも宮司が一枚一枚版木を刷って作っておられるという。
石の宝殿を彫る際に出た屑石を人間や動物が踏まないように,
ひとつひとつを北の方向にある高御位山に運んで,
ひとつひとつ捨て置いていったという。
その石を運んだのは牛や馬の力であり,
猿がその陣頭指揮を取ったと伝わっている。

倍賀春日神社の石灯篭

2011年03月07日 | 自宅から西へ
茨木市は古くから藤原氏と深い関係にあり、平安京にも近く、藤原氏の荘園が数多くありました関係、春日神社も多く、茨木市内には九社もある。
そのうちの一つ「倍賀春日神社(へかかすがじんじゃ)」の境内には、鎌倉時代に作られたといわれる、国の重要文化財に指定された石灯篭がある。
石灯篭は、外にある石製の置灯篭のことで、神仏への献灯が主な目的で作られた。
はじめは仏堂や本殿の前に一基だけ設けられていたが、室町時代頃からは左右一対となり、その後は、観賞用や庭園・街道にも立てられたことから多くの形式が生まれてきた。
昔は「火」は神聖なものとされ、いっさいの不浄を清めうことから「浄火」として大切に扱い、神仏の献上火と四方を明るくする働きによって大切にされてきた。
その火を護る灯篭もまた大切にされてきた。

この灯篭は、竿の上部に「春日大明神 摂州嶋下郡倍加村」と刻まれ、竿の下部には「敬白 高良社 石燈爐 延慶二 八月日 願主 紀口弘」と刻まれている。
延慶二年(1309年)は、鎌倉時代。
しかし、上部の字体が新しいことから、いつの頃か、高良社からここに移されたと考えられているが、どこの「高良社」なのかはわかっていないという。



高級ブランドはお好き?

2011年02月04日 | 自宅から西へ
高級ブランドはお好きですか?
私にはあんまり縁がないのですが・・・
そんな私でも,パリではルイ・ヴィトン本店,
フィレンッエではプラダのお店で買い物をしたことがあります。
大阪御堂筋には,いろんな高級ブランドのお店が並んでいました!

@「ビジネス」から「ブランド」へ…大阪・御堂筋の顔
高級宝飾ブランド「ハリー・ウィンストン心斎橋店」と、高級バッグなどで知られる仏ブランド「エルメス御堂筋店」がオープンした大阪・心斎橋。ここ10年ほど続いた出店ラッシュで、御堂筋沿いに20以上のブティックが立ち並び、東京の銀座や青山に並ぶ世界有数のブランド街に成長した。周辺にある商店街の人通りも倍増しており、地元は“経済効果”に大きな期待を寄せている。

石清水八幡宮とエジソン

2011年01月18日 | 自宅から西へ
石清水八幡宮の境内案内板に「エジソン記念碑」があった。
なんで石清水八幡宮にエジソンの碑が???
エジソンと日本を結ぶモノ・・・
そうや!
たしか,電球のフィラメントは「日本の竹」やったはず!
@エジソン記念碑
エジソン電球の炭素フィラメント材料に京都の石清水八幡宮の孟宗竹が使われたことは有名です。このことを記念して、京都府八幡市にある石清水八幡宮境内には「エジソン碑」があります。
西暦1879年にトーマス・アルバ・エジソンが灯火の革命ともいえる炭素白熱電球を発明し、この石清水八幡宮境内に生えている竹が電球の命ともいえるフィラメントの材料として最も適していることを知り電球発明の翌年から十数年もの永い間この竹を使ってたくさんの炭素電球を造り世界の人々に電灯のありがたさを知らされました。つまり、この八幡の竹が炭素発熱電球の実用化に大きな役目をつとめたのです。
 そこで1929年に電灯発明五十年を記念して世界各国で電灯黄金祭が催された時、日本もこれに加わり記念事業の一つとして電球の発明と切っても切れない関係にあるこの土地に記念碑を建てエジソンの功績を永久に伝え讃えることになったのです。
 最初に建てられたのはこの境内北側に続く場所でしたがエジソン彰徳会の手で昭和三十三年にここに移され更に昭和五十九年十月に現在の姿に再建されました。

石清水八幡宮のエジソン碑?

2011年01月17日 | 自宅から西へ
石清水八幡宮の境内案内を見ていたら,境内にエジソン碑があるという。
参拝後,私はエジソン碑の方角へと歩いた。
それらしい碑が見えたので,近づいたら・・・
正面から見ても???

どう見ても,エジソンには見えへんかった???

高貴寺の虎次郎

2010年12月24日 | 自宅から西へ
役行者が,吉野まで架けようとした「久米の岩橋」。
その岩橋が残るという岩橋山の麓の高貴寺を訪ねた。
駐車場に車を止めると,私を待つ人?がいた。
お寺の方が,私を待ってくれている???
後から分かったことだが,私のすぐ後を走ってきた業者の車を待っていたのだ。
寺へは2つの道があったが,
山門が見えたので,私は鐘楼を兼ねた山門をくぐった。
すぐに1匹の犬が出迎えてくれた。

その後,その犬は境内を案内してくれた。
お参りが終わって,もう一方の道にあった注意書きを見たら
「虎次郎にエサを与えないで」とあったけど・・・
あの犬が虎次郎やったんやろか???


丹波篠山・春日神社「大森彦七 南朝の雄魂に悩まされる図」

2010年10月25日 | 自宅から西へ
ここのところ,我が家の食卓によく「黒豆の枝豆」が登場する。
「黒豆の枝豆」なぁ~
美味しいなぁ~
ビールがすすむ。
「黒豆」と云えば「丹波篠山」。
あの日,丹波篠山の春日神社で見かけた「大森彦七 南朝の雄魂に悩まされる図」の絵馬を思い出した。
@丹波篠山・春日神社の「大森彦七 南朝の雄魂に悩まされる図」と題される絵馬
江戸時代・貞亨4年(1687)篠山藩主松平家の臣・塀和佐内景広が奉納した「大森彦七 南朝の雄魂に悩まされる図」と題される絵馬が掲げてある。
大森彦七盛長は伊予(愛媛県伊予郡砥部荘)の豪族で千里(せり)城城主【鎌倉時代以前からの城で、元弘・建武年間(1331~1336)頃には大森次郎佐衛門盛清・彦七盛長父子の居城、徳川時代の一国一城令で廃城となった】足利尊氏の家臣。建武3年(延元元 1336)5月・湊川の合戦には河野氏等と武家側細川卿律師定禅に付いて、宮方の将:楠木正成を敗死させた報いとして、楠木正成・新田義貞はじめ多くの南朝諸雄の霊魂に悩まされたという。
「太平記」巻第二十三では暦応5年(興国3 1342)頃の不思議の故事として描かれており、浄瑠璃や「鏡獅子・船弁慶・紅葉狩」等に並ぶ歌舞伎十八番の演目にも有り、神社奉納の絵馬の題材ともなって良く知られるところです。
湊川合戦の後・暦応3年(1340)には宮方の新田義貞の弟・義助により制圧されるが、側細川頼春の来援で形勢逆転。
この軍功により新たに数箇所現・伊予郡松前町等を恩賞として賜り、自らも猿楽衆であった彦七は様々な装束を下人に持たせて、砥部の居館を出て新領地に有る玉松山金蓮(こんれん)寺【真言宗智山派智積院 大同3年 (808)河野氏の開創 伊予十二薬師第9番】に 於いて猿楽を演ずる為に重光に入り、を流れる矢取川を渡ろうとして、その川べりに佇む一人の美女が川を渡れずに難渋しています。
斯かる田舎に・か様な美女が・何れより来て何処へ行こうとしているのか?・・・とあやしんだが、打ち萎れた美女の姿に惹かれ心ならずも、彦七は美女を背負って川を渡ります。ところが途中で美女が急に重くなったので不審に思い、明かりで川面に映った美女の姿を見ると、なんとそれは鬼の顔だった。
鬼は楠木正成の怨霊だといい、彦七の腰の刀を奪おうとします。彦七は鬼を退散させるが、後に足利尊氏の弟・直義に事の顛末を報告するとともに、その刀を献上したという。

高野山・西塔

2010年09月20日 | 自宅から西へ
8月のお盆前に通過した高野山。
赤い「根本大塔」が立派やった。
せやけど,境内の端に建つ,
木の色をした「西塔」の方が気に入った。
今は,秋の彼岸。
大勢のお参りやろなぁ~
山上は,かなり涼しいんやろなぁ~