e411y(回顧録)

e411yの旅でのことを書き残しておきたいと思います。

西行法師前

2012年03月08日 | 人物
こんなバス停を見かけて、思わず急ブレーキ!
大河ドラマ『平清盛』も目が離せないですねぇ~

菜の花忌・司馬遼太郎

2012年02月12日 | 人物
2月12日は司馬遼太郎の命日「菜の花忌」です。司馬遼太郎は野に咲く花、とりわけタンポポや菜の花といった黄色い花が好きでした。『菜の花の沖』という長編小説があることにも由来します。

記念館の書斎の前には、直径1メートルほどの土管があります。司馬遼太郎はここに菜の花を植え、春の開花を楽しみにしていました。このあたりは、小さいながら雑木林風の庭になっていて、今も同じようにボランティアの皆さんが菜の花を植え、来館者をお迎えしています。

また、この日には、1997年以来、毎年、東京と大阪交互にシンポジウムや講演会を開いています。会場に全国から贈られる菜の花約3500本が飾られ、終了後、入場者にお配りするのが恒例になりました。2001年開館の記念館にも菜の花が飾られ、この日の来館者にプレゼントしています。

行基像

2012年01月12日 | 人物
先日,TVニュースの画面に近鉄奈良駅前が映っていた。
私はニュースの内容よりも“行基像”が映るかどうか気になってしかたなかった。
結局,像の台座部分は映ったんやけど・・・
行基様を拝みたかったのに・・・

写真;㊤奈良市・霊山寺の行基像
  ;㊦御所市・九品寺の行基像

@行基(ぎょうき/ぎょうぎ、天智天皇7年(668年) - 天平21年2月2日(749年2月23日))は、日本の奈良時代の僧。677年4月に生まれたという説もある。僧侶を国家機関と朝廷が定め仏教の一般民衆への布教を禁じた時代に、禁を破り畿内を中心に民衆や豪族層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。また、道場・寺を多く建てたのみならず、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所を、困窮者のための布施屋9ヶ所等の設立など社会事業を各地で行った。朝廷からは度々弾圧されたが、民衆の圧倒的な支持を背景に後に大僧正として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺ほか)建立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。

茨木童子

2012年01月02日 | 人物
今夜は、正月で帰省していた息子を送って大阪・茨木へ。
この街の郵便ポストの上には“茨木童子”がいた。
皆さんの家にも、このポストから投函された年賀状が届いたかも?

@茨木童子(いばらきどうじ)
平安時代に大江山を本拠に京都を荒らし回ったとされる「鬼」の一人。茨城童子と書くこともある。酒呑童子(しゅてんどうじ)の最も重要な家来であった。
出生地には、摂津国(大阪府茨木市水尾、または兵庫県尼崎市富松)という説と、越後国(新潟県旧栃尾市、現在の長岡市の軽井沢集落)という説がある。生まれた頃から歯が生え揃っていた、巨体であったなど周囲から恐れられ、鬼と化した後は酒呑童子と出会い舎弟となり、共に京を目指した。
酒呑童子一味は大江山(丹波国にあったとされるが、現在の京都市と亀岡市の境にある大枝山という説もある)を拠点にし、京の貴族の子女を誘拐するなど乱暴狼藉をはたらいたが、源頼光と4人の家臣たち(頼光四天王)によって滅ぼされたという。 しかし茨木童子は逃げ延びたとされ、その後も頼光四天王の一人である渡辺綱と一条戻り橋や羅生門で戦った故事が後世の説話集や能、謡曲、歌舞伎などで語り継がれている。

大津皇子

2011年12月19日 | 人物
生年: 天智2 (663)
没年: 朱鳥1.10.3 (686.10.25)
謀反の罪で自殺した皇族。
天武天皇と大田皇女(天智天皇の娘)の子。天武1(672)年6月壬申の乱に際し,近江(滋賀県)を脱出,鈴鹿(鈴鹿市)で父からの使者に会い,続いて伊勢国朝明郡(三重県朝日町付近)において父の一行と合流した。8年5月吉野宮における誓盟に参加,天武の前で皇后(のちの持統天皇),天武・天智の6人の皇子が互いに協力し逆らうことのないことを誓った。12年2月21歳になり,初めて国政に参画。朱鳥1(686)年8月封400戸を加えられたが,同年9月天武が亡くなると,10月2日新羅僧行心らにそそのかされて謀反を企て,失敗して翌日訳語田(桜井市戒重)の家で死を賜った。時に24歳。即日,妃の山辺皇女は嘆いて殉死した。

大津の風貌はたくましく音声明瞭で,天智の寵愛を受け,長じて才学あり文筆を好み,『懐風藻』によれば度量広大で博識,詩文を得意とし,成長するにおよび腕力強く撃剣に巧みとなった。また高貴の身をおごらず人を厚く礼遇したので人気があった。
大津の謀反計画を密告したのは朋友の川島皇子(天智天皇の子)であったという。逮捕された三十余人のうち,行心ほかひとりを除きみな赦免になったことから察すると,計画が事実無根ではなかったとしても,子の草壁皇子を擁立する皇后らが事前に察知し,大津の抹殺のために利用したと考える説が有力である。大津の墓は二上山の雄岳(奈良県当麻町)にある。
『万葉集』に4首の短歌,『懐風藻』に4編の詩を遺す。死に臨んでの「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」の哀切の一首は有名。

同母姉の大伯(大来)皇女が『万葉集』に遺す歌6首はすべて大津への思いやりとその死の哀惜を表す。
1984年度飛鳥京跡調査で,「大津皇」「大来」などの木簡削片が出土した。
<参考文献>直木孝次郎『持統天皇』

ザビエル滞鹿記念碑

2011年12月15日 | 人物
イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが、薩摩人ヤジロウの案内で鹿児島に上陸したのは天文18年(1549)でした。これが日本最初のキリスト教の伝来です。
しかし、仏教徒の激しい反対にあい、ザビエルは10カ月で平戸に移りました。
鹿児島市東千石町のザビエル公園にある滞在記念堂は、明治44年(1911年)にザビエル渡来を記念して、鹿児島県内で最初の石造りの教会が建てられました。しかし、昭和20年の戦災で焼けてしまい、焼け残った旧教会の石壁を利用して、記念碑がたてられたものです。
また、道路の向かい側にあるザビエル教会は昭和24年にローマ法王の寄付金をもとに建てられたゴシック建築の教会でしたが、これも平成12年に建て替えられ今は近代的な教会になっています。

@フランシスコ・デ・ザビエル(スペイン語:Francisco de Xavier または Francisco de Gassu y Javier, 1506年頃4月7日 - 1552年12月3日)
スペイン・ナバラ生まれのカトリック教会の司祭、宣教師。イエズス会の創設メンバーの1人。
ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。また、日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日。

1548年11月にゴアで宣教監督となったザビエルは、翌1549年4月15日、イエズス会員コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人と共にジャンク船でゴアを出発、日本を目指した。
一行は明の上川島(広東省江門市台山/en:Shangchuan Island)を経由しヤジロウの案内でまずは薩摩の薩摩半島の坊津に上陸、その後許しを得て、1549年8月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した(この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた)。
1549年9月には、伊集院城(一宇治城/現鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得た。ザビエルは薩摩での布教中、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と好んで宗教論争を行ったとされる。後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどにもこの時に出会う。
しかし、貴久が仏僧の助言を聞き入れ禁教に傾いたため、「京にのぼる」ことを理由に薩摩を去った(仏僧とザビエル一行の対立を気遣った貴久のはからいとの説もある)。

小松帯刀像

2011年12月13日 | 人物
小松帯刀の像に中央公園の近くの中央公民館横、宝山ホールというホールの前で出会った。
大河ドラマ『篤姫』でよく見たお方。
背景の都合で撮影が難しかった。

@小松清廉(こまつ きよかど)
天保6年(1835年)~明治3年(1870年)は薩摩藩士、明治時代初期の政治家。天保6年(1835年)、喜入(現鹿児島市)領主の肝付兼善(きもつきかねよし)の三男、尚五郎(なおごろう)
として生まれた。
安政3年(1856年)、22歳のとき島津斉彬の命によって小松家の養子となり、小松帯刀清廉(きよかど)と改名、島津斉彬のもとでは火消隊長などして活躍、斉彬の死後にあたる文久元年(1861年)には側役に昇進し、第29代藩主島津忠義のもと、大久保利通を重用するなどしながら島津久光を補佐した。
さらに文久2年(1962年)からは家老として、薩長同盟や王政復古に関わり、西郷隆盛、大久保利通といった薩摩の志士の活躍を藩の家老という立場で支えた。
明治3年(1970年)に病気のため、36歳の若さで亡くなった。
小松清廉は、一般には小松帯刀(こまつ たてわき)の呼び名で知られる。

天璋院篤姫像

2011年12月07日 | 人物
天璋院 / 篤姫(てんしょういん / あつひめ、天保6年12月19日(1836年2月5日) - 明治16年(1883年)11月20日)は、江戸時代後期から明治の女性で、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所となった。
実父は薩摩藩主島津家の一門・今和泉(いまいずみ)領主・島津忠剛。母は島津久丙の娘・お幸。薩摩藩9代藩主・島津斉宣の孫。
幼名・一(かつ、もしくは、いち)。本家当主で従兄・島津斉彬の養女になり本姓と諱は源 篤子(みなもと の あつこ)に、近衛忠煕の養女となった際には藤原 敬子(ふじわら の すみこ)と名を改めた(この際に篤の名は君号となり、篤君(あつぎみ)」となった)。

@篤姫銅像が鹿児島に完成 誕生日に除幕式(2010年12月19日の記事)
薩摩藩の出身で、幕末の徳川将軍家を支えた天璋院篤姫の銅像が、10代の一時期を送った鹿児島市の鶴丸城跡にある歴史資料センター「黎明館」に完成。篤姫誕生日の19日、市などの実行委員会が除幕式を開いた。
像は台座を含め高さ約3・1メートルで、鹿児島市の彫刻家中村晋也さん(84)が、篤姫40歳前後の写真を参考に制作。
除幕式で徳川宗家第18代当主の徳川恒孝さん(70)は「篤姫は早くに江戸に嫁ぎ鹿児島に戻ることはなかった。鹿児島に素晴らしい像ができてうれしい」と感慨深げに話した。

大久保利通像

2011年12月06日 | 人物
明治の風にフロックコートをひるがえす、大久保利通のモニュメント。

西郷隆盛、木戸孝允と並び明治維新の三傑と言われた人物で、明治政府の中心的役割を果たしていた。
銅像は昭和54年、没後100年を記念して彫刻家・中村晋也によって製作されたもので、高さ4.3m。
足元には暗殺された際に共に犠牲になった馬車夫と馬の像もある。

西郷隆盛像

2011年12月05日 | 人物
江戸城無血開城や明治新政府樹立など明治維新に最大の功績を残した「西郷どん」ですが、征韓論に敗れ下野。 その後、西南戦争で新政府軍と戦い敗北し、この城山の地で自刀しました。
没後50年祭記念として鹿児島市出身の彫刻家で渋谷の「忠犬ハチ公」の制作者・安藤照が8年をかけ製作し、昭和12年(1937年)5月23日に銅像が完成しました。わが国初の陸軍大将の制服姿で、城山を背景に仁王立ちする高さ8メートルの堂々たるモニュメントです。本体5.76メートル、土台1.21メートル、築山7.27メートル。

※東京都台東区上野の上野公園に建っている西郷像は高村光雲の作(傍らの犬は後藤貞行作

若き薩摩の群像

2011年12月04日 | 人物
鹿児島中央駅で私を迎えてくれたのは、
江戸時代の末期に国禁を犯して海外留学を果たし、
日本の近代化のために尽力した薩摩藩の青年藩士17人の銅像
「若き薩摩の群像」。

昭和57年3月建立。
高さが12.1m(台座部分9.49m)、中村晋也氏によって制作された。