e411y(回顧録)

e411yの旅でのことを書き残しておきたいと思います。

剣菱

2012年01月14日 | 
今朝から空の一升瓶を片付けた。
親父の大好きな酒“剣菱”。
@剣菱酒造株式会社
兵庫県神戸市東灘区に本社を置く日本の酒造会社。
創業から今日にわたって、主として「剣菱」と「黒松剣菱」を製造し続けている。
灘五郷の一つ、御影郷に本拠を構える老舗蔵元。「ケンビシ」の愛称で親しまれる。
正確な創業年は記録が残っていないため不明だが、永正2年(1505年)頃の史料に「剣菱」という名の酒の記録があることから500年以上前から存在する銘柄。日本で最初に商品名が冠された酒でもある。
室町時代から大正時代にかけては伊丹市で営業していた。昭和4年(1929年)になって現在の神戸市東灘区に移転し現在に至る。
一時期、他社から酒を買い受け自社ブランドで販売するOEM(桶買い)により評判を大きく落としたが、再び自社で製造販売するようになり評価を取り戻している。
晩秋頃から仕込みを始め、春先から秋まで寝かせる「寒造り」と呼ばれる伝統的な製法を今もなお守り続け、吉野杉で造られた甑と相俟って濃厚な味わいときれのある口当たりに特徴がある。
ホームページを開設する有力酒造会社が多い中、当社は一貫してホームページを開設していない。

行基像

2012年01月12日 | 人物
先日,TVニュースの画面に近鉄奈良駅前が映っていた。
私はニュースの内容よりも“行基像”が映るかどうか気になってしかたなかった。
結局,像の台座部分は映ったんやけど・・・
行基様を拝みたかったのに・・・

写真;㊤奈良市・霊山寺の行基像
  ;㊦御所市・九品寺の行基像

@行基(ぎょうき/ぎょうぎ、天智天皇7年(668年) - 天平21年2月2日(749年2月23日))は、日本の奈良時代の僧。677年4月に生まれたという説もある。僧侶を国家機関と朝廷が定め仏教の一般民衆への布教を禁じた時代に、禁を破り畿内を中心に民衆や豪族層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。また、道場・寺を多く建てたのみならず、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所を、困窮者のための布施屋9ヶ所等の設立など社会事業を各地で行った。朝廷からは度々弾圧されたが、民衆の圧倒的な支持を背景に後に大僧正として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺ほか)建立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。

正暦寺の水

2012年01月11日 | 
先日(9日),TVのニュースに奈良・正暦寺の酒造りが映っていた。
正暦寺か~
母が入院していた病院から行ったことあったよなぁ~

@「菩提もと」清酒仕込み 伝統的製法を披露 奈良・正暦寺
「日本清酒発祥の地」として知られる奈良市菩提山町の正暦寺で9日、伝統的製法の「菩提(ぼだい)もと」による清酒の仕込み作業が行われた。同寺僧侶や酒造会社関係者ら約20人が取り組み、見学に訪れた観光客ら約200人は感心したように見入っていた。
同寺によると、菩提もとは近くの湧き水から採取した乳酸菌を使い、蒸した米と麹(こうじ)を合わせてつくる酒母(しゅぼ)で、500年以上の歴史を持つという。
この日は、乳酸菌を含む水に浸されていた約200キロの米が蒸され、湯気とともに独特の香りが立ちこめると、見学者から感嘆の声があがった。蒸し上がった米は麻布に広げて冷まし、麹を入れた水と合わせられた。約10日間発酵させると酒母が完成するといい、各蔵元が持ち帰り独自の酒に仕上げる。
家族と訪れた千葉市若葉区の建築士、関洋征さん(48)は「かつての日本酒はどんな味だったのか、想像しながら飲むのが楽しい。新酒を楽しみにしている」と話していた。

箱の中身は?

2012年01月10日 | 日記
年末に訪ねた毛原廃寺跡。
特に駐車場がなかったので,道端に車を停めた。
その道路に多数の木箱???

昔のリンゴ箱?
中身はなにやろう?
せやけど勝手に覗くのは・・・
毛原廃寺跡を散策して車に戻ったら,業者の人?がトラックにこの箱を積んでいる最中やった。
中身気になるなぁ~

青い実に青い鳥

2012年01月09日 | 趣味の園芸
今日の趣味の園芸は“田の畦の草刈り”。
草刈り機を使って作業してたら“ジェノヒゲの実”を見つけた。

昔、この実を集めてススンボ(笹の茎)で鉄砲作って遊んだよなぁ~
青い実に青い鳥来ないかなぁ~

白鶴(瓶入りの酒)

2012年01月07日 | 
今年になって3本目の空き瓶。
そのほとんどを飲んだのは親父。
この親父、紙パックの(日本)酒は苦手やと言う。
この時代、どれだけの人が瓶入りの酒を飲むんやろか?
そんなことを考えながら、空いた瓶を片付けた。

@白鶴酒造
灘五郷の1つ、神戸・御影郷にある。
本社は兵庫県神戸市東灘区住吉南町四丁目5番5号。
本社の敷地に白鶴酒造資料館があり、団体旅行の見学コースにもなっている。
白鶴酒造は、京都・伏見の月桂冠とともに、日本有数の酒造メーカーである。
白鶴酒造を経営する嘉納家は御影郷でも指折りの名門であり、菊正宗酒造を経営する嘉納家は本家にあたる。白鶴酒造の嘉納家を「白嘉納」と呼ぶのに対し、菊正宗酒造の嘉納家を「本嘉納」と呼ぶ。
白鶴酒造(白嘉納家)は、同じ御影郷の菊正宗酒造(本嘉納家)や魚崎郷の櫻正宗(山邑家)とともに、旧制灘中学校を創設した。
7代目嘉納治兵衛が設立した白鶴美術館は中国古美術、中でも青銅器のコレクションでは世界的に知られ、日本一の私立美術館密集地帯である阪神間においても代表的存在となっている。

伏見の酒

2012年01月05日 | 
豊かな自然風土に育まれ、京文化に磨きあげられた伏見の酒。
その歴史は古く、日本に稲作が伝わった弥生時代に始まったとされています。
以来、脈々と受け継がれてきた酒造りの伝統が花開いたのは、安土桃山(伏見)時代のこと。
天下統一を果たした豊臣秀吉の伏見城築城とともに伏見の町は城下町として大きく栄え、京・大坂・堺に次ぐ人口6万人の大都市を形成しました。酒の需要も急激に高まるなかで、さらに改良も加えられ伏見の酒も一躍脚光を浴びるようになりました。
さらに、江戸時代になると、伏見は港町として発展し、とくに伏見と大坂天満の間に三十石船が上り下りするようになってからは多くの旅人が上陸し、伏見の酒は旅人の口コミで売れてゆきました。
やがて寛永十二年(1635年)参勤交代制度ができると、西国大名は大坂から船で伏見港に上陸し、しばらく逗留して、あらためて大名行列を整え東海道を江戸へ下っていくようになりました。このため伏見には多くの大名屋敷・倉庫・旅籠がならび、西国と東国を結ぶ重要な拠点となりました。造り酒屋の数も急増し、酒株制度のできた明暦三年(1657年)には酒造家83軒、造石高15611石と記録されています。
しかし、米が何よりも貴重であった時代、豊作・凶作による米価の変動を防ぐため酒の造石高は幕府により制限をうけ、経営困難になる蔵が続出しました。さらに幕府は灘や伊丹、池田を幕府直轄の酒造地として手厚く保護し、京の町へ伏見の酒が入ることを禁止したため、ますます伏見の造り酒屋は減っていきました。
幕末、天保年間(1830-43年)には、灘が40万石の生産量を誇ったのに対し、伏見は明暦の頃に比べると造石高は半減し、造り酒屋も三分の一以下になっていました。
しかも、明暦から幕末まで生きながらえ酒造業を続けてきたのは、たった二軒だけでした。その一軒が鮒屋こと北川本家で、もう一軒は笠置屋(現在の月桂冠)です。
伏見の酒の苦悩の時代はまだ続き、勤皇と佐幕に分かれて激しく衝突した「鳥羽・伏見の戦い」の巻き添えで、酒蔵のほとんど消失しました。
そして、明治になって伏見の酒は昔の勢いを盛り返し、天下の酒どころとして全国にその名をとどろかせるようになったのです。明治四十四年には農商務省主催の全国清酒品評会で出品28点のうち,入賞23点と全国最高位を占め、なかでも月桂冠は最優等の栄冠を博し、灘をアッといわせました。

梅乃宿 紅梅

2012年01月04日 | 
昨日は、妹夫婦が子どもたちを連れて年始の挨拶に来た。
義弟もかなりの酒好き。
先日の“九々鱗(くくりん)”が空になり、
次ぎに登場したのが“梅乃宿 純米吟醸 紅梅”やった。
せやけど梅乃宿もすぐに空いてしもた。

@梅乃宿 純米吟醸 紅梅
淡麗な中に純米ならではの芳醇な味わいと旨みを引き出したお酒です。
梅乃宿酒造 株式会社
創業/明治26年(1893年)
奈良葛城山の麓に創業以来今日まで「飲む人の心に語りかけるような酒」を念頭に少しの妥協も許さない酒造りに力を注ぐ。
酒造りの基本は良い原料と高精白。超軟水の葛城山系の伏流水を仕込み水に、南部流の技で醸す酒は柔らかく、きめ細かな味わいが持ち味です

給油

2012年01月03日 | 道路・鉄道・船
昨夜、大阪茨木から地元に帰って、慌てて給油した。

昨日は祝日。
いつも行くガソリンスタンドは、土日・祝日はガソリンが安いから。
1Lが131円。
せやけど高い!
円高やと言うのに・・・
今年の初ボヤキ。

茨木童子

2012年01月02日 | 人物
今夜は、正月で帰省していた息子を送って大阪・茨木へ。
この街の郵便ポストの上には“茨木童子”がいた。
皆さんの家にも、このポストから投函された年賀状が届いたかも?

@茨木童子(いばらきどうじ)
平安時代に大江山を本拠に京都を荒らし回ったとされる「鬼」の一人。茨城童子と書くこともある。酒呑童子(しゅてんどうじ)の最も重要な家来であった。
出生地には、摂津国(大阪府茨木市水尾、または兵庫県尼崎市富松)という説と、越後国(新潟県旧栃尾市、現在の長岡市の軽井沢集落)という説がある。生まれた頃から歯が生え揃っていた、巨体であったなど周囲から恐れられ、鬼と化した後は酒呑童子と出会い舎弟となり、共に京を目指した。
酒呑童子一味は大江山(丹波国にあったとされるが、現在の京都市と亀岡市の境にある大枝山という説もある)を拠点にし、京の貴族の子女を誘拐するなど乱暴狼藉をはたらいたが、源頼光と4人の家臣たち(頼光四天王)によって滅ぼされたという。 しかし茨木童子は逃げ延びたとされ、その後も頼光四天王の一人である渡辺綱と一条戻り橋や羅生門で戦った故事が後世の説話集や能、謡曲、歌舞伎などで語り継がれている。

屠蘇に九々鱗

2012年01月01日 | 
お正月・元旦と云えば“お屠蘇(とそ)”。
なにを飲もうかと酒蔵を物色し、“辰”年やから“長龍”の“九々鱗”に決めた!
“九々鱗”とは龍の異称。一列のうろこが81枚あるといわれるところから、こう呼ばれている。龍は鳳(ほう)、麟(りん)、亀(き)とともに4霊の1つとされ、雲雨を自由に支配する力を持つといわれる想像上の霊獣。このお酒も酒造好適米「山田錦」を100%用いて風格ある味わいをもった自信作として「九々鱗」という立派な名前が付けられたという。
“長龍”は、関西在住の方なら誰しも聞いたことがあるあのテレビCMあれから十余年、長龍は、奈良・広陵町に蔵を構え特定名称酒以上の酒を醸すようになった。準大手的なイメージの蔵が造りだす新生「長龍・広陵」は、これがあの「長龍」の系晋? と疑いたくなるような素晴らしい酒質で進化を認めざるを得ない出来栄えやった。

※屠蘇(とそ)とは、一年間の邪気を払い長寿を願って正月に呑む薬酒である。
「屠蘇」とは、「蘇」という悪鬼を屠(ほふ)るという意味である。数種の薬草を組み合わせた屠蘇散(とそさん)を日本酒に味醂や砂糖を加えたものに浸して作り、小・中・大の三種の盃を用いて飲む。昔から、「一人これを呑めば一家病無く、一家これを呑めば一里病無し」と言われ、伝統的な正月の祝いの膳には欠かせないものとなっている。