私にとっての海外旅行は実は大学の先生がやっていたイギリスへの語学研修の旅でした。つまりパッケージツアーです。おそらく40人以上の人間が参加していたグループツアー。もちろん添乗員付きで、今の私の立場から考えるとあの集客力はうらやましい限りです。
さて、そのツアーでは約1ヶ月のホームステイと現地語学学校への通学を終えた後はパリで数日観光の時間が設けられておりました。それまで英語を実際に言語として認識したことなど無い大学生にとって、ようやく英語が受験のための学問ではなくコミュニケーションの手段であるという感覚がつかめてきた頃に帰国するようなタイミング。パリでのフリータイムはそれまで1ヶ月の体験をさらに実際に応用するにはよい機会であったかもしれません。
もちろんパッケージツアーなので空港からホテルへは日本語ガイドと添乗員付きです。確か半日観光コースなんかも組み込まれていました。ホテルはセーヌ川南岸のあまり日本人観光客が利用しないホテル。このホテルについてはガイドが”日本人だらけのホテルではなく、ツアーの趣旨にしたがって日本人のあまりいない落ち着いた場所で手配しました”と強調していました。
ホテルの部屋に落ち着いた後、フリータイムを利用して同じツアーに参加している人間と出かける事になりました。みんなでエッフェル塔や凱旋門を訪れ、御菓子屋さんでケーキを買ったり、今から考えれば随分まじめな・・・いや、それでは今はマジメじゃないみたいなのですが・・・やはり海外旅行に対する気構えとか、あるいは一緒にいる人たちにカッコつけてたりしていたような気がします。
当時1980年代はフランスとイギリスはあまり関係が良くありませんでした。そのため、パリではせっかく使えるようになった気がする英語が殆ど通じません。一説によると、英語ができるフランス人もフランス国内では絶対英語を話してくれないという話もありました。
実際、私も銀行で両替をしようとして、まったく英語が通じなくて、結局私の後ろにいたガーナ人に仏英の通訳をしてもらったりもしました。
さて、話を戻しましょう。みんなでパリ市内を散策の後、ホテルへ帰る事になりました。そのときの人数は1台のタクシーに乗り切れなかったので多分10人くらいだったのでしょう。パリ市内をあっちへウロウロ、こっちへウロウロしていた我々はもはやホテルの場所がわかりません。セーヌ川の対岸であったことしか覚えていません。
タクシー2台に別れて乗り込み、ホテルの名前をドライバーに告げます。ところがどうしてもドライバーが目的地を理解してくれないのです。乗り込んだ全員が一人ずつ懸命にホテル名を発音してみるのですが、どうしても通じません。そうこうするうちにもう1台のタクシーは発進。とりあえず"あのタクシーを追いかけて”と言ってはみたのですが、渋滞に巻き込まれたタクシーはあっという間に行き別れになりました。我々の乗ったタクシーはお手上げとなり、ドライバーはとりあえず一旦右に車を寄せて停止。ドライバーも一生懸命ホテル名を聞き取ろうとしてくれて、我々も懸命にホテル名を繰り返すのですが通じないのです。
タクシーの中には沈痛なムードが流れ始めます。ドライバーは”ヤッカイなのを乗せてしまったなぁ”という思いと、何とか目的地まで運びたい思いが交錯して複雑な表情です。このままではパリ市内で行方不明です。
その時になって、私に一つの記憶がよみがえりました。みんなとホテルを出るときに、部屋に置いてあったホテルのカードをなんとなく財布に入れて持って出たのです。
財布を開けてみるとありました!ホテル名、住所がはっきり印刷されているではありませんか。
私は自慢げにドライバーにホテルのカードを見せます。その瞬間、ドライバーは”ああ、○○”とホテル名を理解してくれた様子で、今度は迷いなくホテルへ連れて行ってくれました。
ホテルへ向かう車内で、ホテルのカードを持っていた私はみんなの危機を救ったわけで、一躍ヒーローかと思いきや、どういうわけか、”そんなの持ってるんだったら早く出せよ!””何出し惜しみしてやがんだよ”とさんざん罵られたのでした。いや、人というのは勝手な生き物です。
それ以降、ホテルやゲストハウスに到着すると必ずカードをもらって常時携帯するようになりました。一つ賢くなった若い日の思い出です。
さて、そのツアーでは約1ヶ月のホームステイと現地語学学校への通学を終えた後はパリで数日観光の時間が設けられておりました。それまで英語を実際に言語として認識したことなど無い大学生にとって、ようやく英語が受験のための学問ではなくコミュニケーションの手段であるという感覚がつかめてきた頃に帰国するようなタイミング。パリでのフリータイムはそれまで1ヶ月の体験をさらに実際に応用するにはよい機会であったかもしれません。
もちろんパッケージツアーなので空港からホテルへは日本語ガイドと添乗員付きです。確か半日観光コースなんかも組み込まれていました。ホテルはセーヌ川南岸のあまり日本人観光客が利用しないホテル。このホテルについてはガイドが”日本人だらけのホテルではなく、ツアーの趣旨にしたがって日本人のあまりいない落ち着いた場所で手配しました”と強調していました。
ホテルの部屋に落ち着いた後、フリータイムを利用して同じツアーに参加している人間と出かける事になりました。みんなでエッフェル塔や凱旋門を訪れ、御菓子屋さんでケーキを買ったり、今から考えれば随分まじめな・・・いや、それでは今はマジメじゃないみたいなのですが・・・やはり海外旅行に対する気構えとか、あるいは一緒にいる人たちにカッコつけてたりしていたような気がします。
当時1980年代はフランスとイギリスはあまり関係が良くありませんでした。そのため、パリではせっかく使えるようになった気がする英語が殆ど通じません。一説によると、英語ができるフランス人もフランス国内では絶対英語を話してくれないという話もありました。
実際、私も銀行で両替をしようとして、まったく英語が通じなくて、結局私の後ろにいたガーナ人に仏英の通訳をしてもらったりもしました。
さて、話を戻しましょう。みんなでパリ市内を散策の後、ホテルへ帰る事になりました。そのときの人数は1台のタクシーに乗り切れなかったので多分10人くらいだったのでしょう。パリ市内をあっちへウロウロ、こっちへウロウロしていた我々はもはやホテルの場所がわかりません。セーヌ川の対岸であったことしか覚えていません。
タクシー2台に別れて乗り込み、ホテルの名前をドライバーに告げます。ところがどうしてもドライバーが目的地を理解してくれないのです。乗り込んだ全員が一人ずつ懸命にホテル名を発音してみるのですが、どうしても通じません。そうこうするうちにもう1台のタクシーは発進。とりあえず"あのタクシーを追いかけて”と言ってはみたのですが、渋滞に巻き込まれたタクシーはあっという間に行き別れになりました。我々の乗ったタクシーはお手上げとなり、ドライバーはとりあえず一旦右に車を寄せて停止。ドライバーも一生懸命ホテル名を聞き取ろうとしてくれて、我々も懸命にホテル名を繰り返すのですが通じないのです。
タクシーの中には沈痛なムードが流れ始めます。ドライバーは”ヤッカイなのを乗せてしまったなぁ”という思いと、何とか目的地まで運びたい思いが交錯して複雑な表情です。このままではパリ市内で行方不明です。
その時になって、私に一つの記憶がよみがえりました。みんなとホテルを出るときに、部屋に置いてあったホテルのカードをなんとなく財布に入れて持って出たのです。
財布を開けてみるとありました!ホテル名、住所がはっきり印刷されているではありませんか。
私は自慢げにドライバーにホテルのカードを見せます。その瞬間、ドライバーは”ああ、○○”とホテル名を理解してくれた様子で、今度は迷いなくホテルへ連れて行ってくれました。
ホテルへ向かう車内で、ホテルのカードを持っていた私はみんなの危機を救ったわけで、一躍ヒーローかと思いきや、どういうわけか、”そんなの持ってるんだったら早く出せよ!””何出し惜しみしてやがんだよ”とさんざん罵られたのでした。いや、人というのは勝手な生き物です。
それ以降、ホテルやゲストハウスに到着すると必ずカードをもらって常時携帯するようになりました。一つ賢くなった若い日の思い出です。
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