私にとっての初めての海外一人旅は、19歳の春。大学の春休みを利用しての2週間のタイ旅行でした。1980年代中盤のタイはまだ観光旅行先としてはそれほどメジャーではなく、私の周囲の人間は"どうしてそんな危険な所へ行くの?"と尋ねるような場所。私自身、実はそれほど深い考えがあったわけではなく、ヨーロッパを目指して貯めていた資金が、ヨーロッパにはとても辿り着ける金額にはならなかった事と、その頃目にした、澤田教一氏や一ノ瀬泰造氏の写真に影響されて、ベトナムやカンボジアの近くまで行ってみようと漠然と考えたのが一つの理由。それと同時に、とりあえず一旦、日本を離れて自分を試してみたかったというのがより大きな理由であったかと思います。
当時の、伊丹空港からのタイ航空はマニラを経由してバンコクへ向かいます。マニラ空港のトランジットエリアのトイレにはハンカチやティッシュを押しつけてお金を貰おうという輩が何人か屯していて、目的地への途上にありながら既に圧倒され気味。バンコクに到着してみると、ターミナルビル周辺に漂う湿度の高い空気と香辛料の香り、そして、いささか強引な客引き達の熱気に完全に圧倒されてしまったものです。
何とかバンコク市内へ辿り着いてみたものの、そこでよく考えてみたら、自分は日本国内はバイクで野宿しながらツーリングしていたので、ホテルというものに泊まった事がありません。それでもガイドブックを必死に解読して安宿に一夜の宿を確保。翌日は何となく鉄道の駅へ行き、何となく路線図を眺めて、とりあえず目的も無いまま東北線の突端、ノーンカイでも目指してみるかと切符を買おうと思ったのです。
ところが当時のバンコク、ホアラムポーン駅では英語は全く通じません。苦労してノーンカイという地名を発音してみますが、全く通じず、結局私は鉄道の切符を手に入れる事ができませんでした。
そんな私に声をかけてきたのは白タクの運転手。話を聞いてみると、トゥクトゥクを運転していたのだけれど、事故で車輌を壊してしまって失業中。友人から車を借りて白タクをやっているという事。
彼の"チェンマイ行きのツアーバスに乗っていかないか"との言葉に"それも簡単で良いなぁ"と同意した私は彼に連れられてツアー会社へ。チェンマイ行きの現地ツアーに申し込んだのでした。
ツアーの出発は夜。それまでの時間を、"オレの家においで"という言葉に単純に流されて、"金ヅル"を見るその白タクの運転手の視線を気にしながら、流されるまま辿り着いたのは鉄道線路沿いのスラム。板切れや錆びたトタンで組み上げた小屋の一つが彼の家でした。案の定、その人物には"ウイスキー代"をしつこくせびられたりもしましたし、実際、メコンウィスキーを2本ほど進呈しましたが、彼の家族の"やめてあげなさいよ"などの言葉もあって、それほどひどくお金をふんだくられる事もなく、夕方までの時間を少し衝撃的な環境の中で過ごす事ができたのでした。
思えば、あの出だしから躓いた旅こそが、その後の自分の旅の原点となった旅であったのかもしれません。
当時の、伊丹空港からのタイ航空はマニラを経由してバンコクへ向かいます。マニラ空港のトランジットエリアのトイレにはハンカチやティッシュを押しつけてお金を貰おうという輩が何人か屯していて、目的地への途上にありながら既に圧倒され気味。バンコクに到着してみると、ターミナルビル周辺に漂う湿度の高い空気と香辛料の香り、そして、いささか強引な客引き達の熱気に完全に圧倒されてしまったものです。
何とかバンコク市内へ辿り着いてみたものの、そこでよく考えてみたら、自分は日本国内はバイクで野宿しながらツーリングしていたので、ホテルというものに泊まった事がありません。それでもガイドブックを必死に解読して安宿に一夜の宿を確保。翌日は何となく鉄道の駅へ行き、何となく路線図を眺めて、とりあえず目的も無いまま東北線の突端、ノーンカイでも目指してみるかと切符を買おうと思ったのです。
ところが当時のバンコク、ホアラムポーン駅では英語は全く通じません。苦労してノーンカイという地名を発音してみますが、全く通じず、結局私は鉄道の切符を手に入れる事ができませんでした。
そんな私に声をかけてきたのは白タクの運転手。話を聞いてみると、トゥクトゥクを運転していたのだけれど、事故で車輌を壊してしまって失業中。友人から車を借りて白タクをやっているという事。
彼の"チェンマイ行きのツアーバスに乗っていかないか"との言葉に"それも簡単で良いなぁ"と同意した私は彼に連れられてツアー会社へ。チェンマイ行きの現地ツアーに申し込んだのでした。
ツアーの出発は夜。それまでの時間を、"オレの家においで"という言葉に単純に流されて、"金ヅル"を見るその白タクの運転手の視線を気にしながら、流されるまま辿り着いたのは鉄道線路沿いのスラム。板切れや錆びたトタンで組み上げた小屋の一つが彼の家でした。案の定、その人物には"ウイスキー代"をしつこくせびられたりもしましたし、実際、メコンウィスキーを2本ほど進呈しましたが、彼の家族の"やめてあげなさいよ"などの言葉もあって、それほどひどくお金をふんだくられる事もなく、夕方までの時間を少し衝撃的な環境の中で過ごす事ができたのでした。
思えば、あの出だしから躓いた旅こそが、その後の自分の旅の原点となった旅であったのかもしれません。
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