前にも書いた話ですが、私が様々な国を旅していての一つの自慢は"土地勘"の良さ。宿泊施設もなんとなく勘で見つける事ができるし、読めない道標を追いながらツーリングするのもほとんど不安を感じた事はありません。ところが、私も東京では迷います。地下鉄を出るとどこだかわからないし、バイクで初めて行く所へはかなり時間の余裕を見て出かけます。
この事が不思議で、ある意味では悔しくもあって、その理由を追求してみた事があります。その結果、他の土地と比較して東京が特異なところ。それは"情報が多い"事ではないかと思いついたわけです。
例えば道標を追って走ろうにも、標識の他に広告看板も、信号も多数あって目に入ってくる情報は処理しきれるものではありません。そして肝心の道標もあまりにも多く、そしてそれらが時には相反する回答を示していたり(つまり、どちらに行っても目的地へ行ける場合があるという事)して、結局上手く判断がつかなくなってしまうわけです。皆さんにはそんな経験はないでしょうか。私はこの事に気がついてから、あまり細かく道標を追うのを止める事にしました。そして、その結果、それほど迷わずに東京を動けるようになったのです。
最初は迷っていた道であっても、何度か通るうちに必要とする情報がどれで、無視すべき情報が何なのかを体験的に身につけてだんだん迷わなくなるという側面もあります。
これは現代社会と似ていると思いませんか。インターネットや雑誌、テレビなど多くの情報が溢れていて、その中にどっぷり浸っていると、まるで何でも知っているような気になりますが、実際には多くの道路標識に迷わされて道に迷っているのではないでしょうか。道路で迷うよりもタチが悪い事に、この場合は自分が迷子になっている事すら気がつきません。
このような中で情報の洪水に押し流されないためには、道標を眺めてわかった気になっているのではなく、実際にそこへ行って、失敗して袋小路に入り込んでみたりしながら、どの情報を無視すべきかの勘を養うしかないのではなかと思います。情報と共存するためにはその情報に負けないだけの体験が必要なのだと思います。
情報という他人の体験に頼るのはやめて、自分の足で迷ってみようではありませんか。
この事が不思議で、ある意味では悔しくもあって、その理由を追求してみた事があります。その結果、他の土地と比較して東京が特異なところ。それは"情報が多い"事ではないかと思いついたわけです。
例えば道標を追って走ろうにも、標識の他に広告看板も、信号も多数あって目に入ってくる情報は処理しきれるものではありません。そして肝心の道標もあまりにも多く、そしてそれらが時には相反する回答を示していたり(つまり、どちらに行っても目的地へ行ける場合があるという事)して、結局上手く判断がつかなくなってしまうわけです。皆さんにはそんな経験はないでしょうか。私はこの事に気がついてから、あまり細かく道標を追うのを止める事にしました。そして、その結果、それほど迷わずに東京を動けるようになったのです。
最初は迷っていた道であっても、何度か通るうちに必要とする情報がどれで、無視すべき情報が何なのかを体験的に身につけてだんだん迷わなくなるという側面もあります。
これは現代社会と似ていると思いませんか。インターネットや雑誌、テレビなど多くの情報が溢れていて、その中にどっぷり浸っていると、まるで何でも知っているような気になりますが、実際には多くの道路標識に迷わされて道に迷っているのではないでしょうか。道路で迷うよりもタチが悪い事に、この場合は自分が迷子になっている事すら気がつきません。
このような中で情報の洪水に押し流されないためには、道標を眺めてわかった気になっているのではなく、実際にそこへ行って、失敗して袋小路に入り込んでみたりしながら、どの情報を無視すべきかの勘を養うしかないのではなかと思います。情報と共存するためにはその情報に負けないだけの体験が必要なのだと思います。
情報という他人の体験に頼るのはやめて、自分の足で迷ってみようではありませんか。
しかし、これが慣れると結構、居心地がいいのです。