橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

最近ブログをアップしてない理由。

2013-03-13 15:44:54 | Weblog

1月10日以来、ツイッターの再録ばかりで、1度も新しい記事をアップしていなかった。

これだけ間が空いたのは、このブログタイトルにしてからは初めてかもしれない。なんだか、夜、眠過ぎて、深くものを考えることができなくなっている。完全に朝型に生活パターンを変えていかないといけないのだろう。

あと、最近再び、ご飯を家で作るようになった。ブログを書く時間がこちらにとられているのかもしれない。

ご飯を作っているのは、近所のデパ地下の閉店前の叩き売りにはまっているからだ。1000円で山盛りの魚が買える。先日などは、すごく大きなお刺身用スルメイカ2杯350円、えぼだい150円、お刺身わかめ105円、舌平目300円などなど。ある時などは、ブリの切り身2切れ、いわし6匹、うまづらはぎ6匹、名前忘れたけど、アジくらいの大きさの白身魚5匹これだけ全部で1000円だった。うまづらはぎを一夜干しにしたら、ふぐばりに美味しかったし、ぶりの唐揚げもよかった。さすがデパートにおいてる品物だ。

こうした魚にくわえて、今の時期、同じデパ地下でゲットしたいちごで冷蔵庫がいっぱいだ。閉店10分くらい前になると、1パック600円くらいで売ってた栃おとめが3パック1050円になる。おかげで、冷蔵庫の中は真っ赤っかである。

いちごといえば、ケーキの中でもいちごのショートケーキはモンブランと並んで昭和40年代生まれにとっては定期的に食べたくなるケーキのひとつだ。名前の覚えられないケーキに興味はなくなった。上野と言えば、上野桜木のイナムラショウゾウには休日になると常に行列ができているが、私はシンプルないちごのショートケーキが食べたい。

例のデパ地下でアンテノールだのなんだのといちごのケーキは並んでいるが、1個のきなみ525円で、一つ買うのもなんなので、2つ買うと1000円超える。冷蔵庫は1000円でゲットしたいちごでいっぱいなのに、1000円でたった2つのケーキを買うのがなんだかばかばかしくて、そうだ、自作しよう!と思った。

もちろんスポンジからなんて焼いてられない。スポンジを探したがなかったので、上野駅の中の自由が丘ガーデンで安いバームクーヘンを買った。17cmくらいのワンホール380円くらいだったのではないか。生クリームも380円くらい。10年以上前のクリスマスにフレンチシェフの石鍋氏のケーキを取材した時に、たしかマスカルポーネチーズを生クリームと合わせていたのを思い出して、500円弱のマスカルポーネも買った。ついでに冷凍ラズベリー450円も買った。よし、万全だ。これで5切れはショートケーキもどきができるはず。すると1個525円としたら2625円也である。材料費を合わせても元は取れる。

何て思っていたが、ちょっと甘かった。帰りにヨドバシカメラで電動の泡立器を買った。1860円なり。でも安い。いきおいでパティシエナイフ575円も買ってしまった。いずれ焼こうと思ってスポンジケーキの型1450円も買った。もう、準備万端以上だ。1000円のケーキ代がもったいないと思ったものが、結局、4000円くらい余計に使っている。でもまあ、作り続ければもとはすぐとれる。

けれど、まださすがにスポンジケーキの型までは使っていない。張り切ってマスカルポーネも買ったけど、これは朝、パンに付けて食べている。結局、もろもろ買ってから数日後となる昨日の夜、やっとバームクーヘンとホイップクリームによる自作ショートケーキが出来上がった。さすがに、電動泡立器、パティシエナイフまで買ったのもあって、10分足らずでデコレートできた。見た目はあまり綺麗じゃないけど、ショートケーキ食べたい熱を十分に落ち着けてくれるものであった。これだけいちごの分量があれば、ちゃんと甘酸っぱいいちごの味がして、まさにいちごのケーキであった。もちろん、中のバームクーヘンは半分に切って、中にスライスイチゴがはさんである。

そして、ついさっき、残っていたクリームを使って、2個目。

今回はラズベリーも乗せた。いちごとラズベリーがたわわに乗っかって、見た目は美しくないけど、なんだか嬉しい。クリームの塗り方なんて適当でも嬉しい。白い生クリームとは、薄ーく美しく塗られたものをちびちび食べるのではなくて、ぼてっと塗られてるのを無造作にばくばくっと食べるものではないのかなと、無造作な自作のショートケーキを食べながら思う。

ただ、先日デパ地下で見たいちごのケーキのデコレートの実演は、さすがに職人技で、しばらく見入ってしまった。左官さんが壁を塗るように、きれいにクリームを塗っていく。やはり自分のケーキとは別物だ。食べる時の気持ちも別物だ。

じつはスポンジケーキ用の粉も買ってある。冷蔵庫には4本1束×3束=315円のアスパラや、2つで200円の巨大ブロッコリなど、消費を待つデパ地下食材が待っている。ブロッコリはグラタンにするつもりだ。

こんなことをしているから、ブログを書いてる時間が無いのだ・・・。

いやいや、仕事や家の大掃除や、その他もろもろ、なんだか忙しいのだ。貧乏暇なし。
 
でもねえ、自分でごはん作ってると、なんかいいもの食べてる気がして、幸せな気分になるのですよ。お金はあまりかかってないけど材料も結構いいものだから、美味しい店とかそれほど行きたくなくなる。本当に美味しい店は別ですが。
 
そろそろ能登のさか本に行こうかな…。

今年最初の投稿は・・・

2013-01-10 15:14:56 | Weblog

年初の挨拶もせず、やっと10日に今年最初の書き込み。

いっそのこと、旧暦で考えれば、正月はまだ一か月も先。

そっからを新年ということにしようかとか。

でも、なんか思い立ったので、こうして投稿していますが、

旧暦の正月に今一度、新年の目標をたてればいいか、とか考えています。

って、すごく適当な今年最初の投稿ですが、

世の中見回すと、変に力の入ったしゃべり方で、

多くの人を脱力させている人もいるようなので、

ちょっと今年の年初は力を抜いてみました。

 

肩の力を抜いて、でも希望は捨てず、深く考えたい2013年の新春です。

 

考えてみれば、私にとっての去年は、

日本の歴史について、やっと考え始めた1年だった気がします。

平清盛見ながら、日々のニュースを見ながら、

たまたま読むことになった伊勢神宮の本とか、

東北のこととか、なんだか突然、ナウシカの漫画版読んじゃったり・・・。

 

それぞれについては、また改めて書くとして、

そんな日本に生まれたものとして、これからこの日本はどうなっていくのか

その日本をどうしていくかの張本人である私たちは今どうすべきか、

歴史から学ぶことは多いはずと信じて、

今年もいろいろ考えたいと思います。

 

では、今年も宜しくお願い致します。

 

 

 

 


今日の覚え書き<1>「ヨドバシカメラで電球を買う」

2012-12-05 00:52:08 | Weblog

電球が切れたので、ヨドバシカメラに買いに行った。

1階はカメラと携帯電話売り場だよなと思いながらエスカレーターに乗ったら、電球が置いてあるのはなんと7階だった。2、3階はパソコン関連商品。4階はテレビ、オーディオ、5階以上はその他のいろんな生活家電。7階は電灯一般。段々上に行くに従って、生活臭のする家電になる。5階はシェーバーや美顔器、ドライヤーなどのおしゃれ家電、6階がいわゆる白物家電だ。

やはり賑わっているのは携帯やパソコンのフロアで、儲かってるところが良い場所にあるのは当然だが、なんか変な気がした。私たちってもう「暮らし」なんてどうでもいいんだな。暮らしとは着るとか食べるとか住むとかってことだ。

私たちは、無くても済むものばかりを欲しがってる。まあ、それが先進国の宿命だ。

電球は切れたら本当に困る。夜が暗くなる。パソコンは、一時でも手元に無いと困るといえば困るのだが、本当に困るのか?パソコンが無いと仕事にならないと言うが、それは私たちがパソコンが無いと仕事にならない世の中に変えてしまったからだ。ファックスがメールに変わって節約された時間が何に変わっているかというと、facebookにランチの写真をアップしてたりするだけではないのか。別にそれが悪いことじゃないけど、それさえも今や楽しみの域を超えつつある。私たちは生活水準とやらを保つため、経済規模をいまだに拡大させようと、いらないものをどんどん作って、いらないものを使ってもうひとつの別の世界を作っている。月や火星に進出することはなかったが、パソコンというブラックホールの中に経済活動だけを行う植民地を作ったようなものだ。

人間が生きて行くために何が必要か?という質問はもはや存在しないか、下手すると「携帯」と答えられてしまいそうな勢い。

時代を支えるものづくり産業というものがある。一世代前は自動車だったのだろう。車は生活を楽にしてくれたが、公害もまき散らし、CO2も排出した。普及して行く中で、どのへんまでが便利でどのへんからが過剰で害となったのだろうか?パソコンだって同じことだ。そろそろ便利の域を超えつつある。パソコンを使って楽になるはずのものが楽になっていない実体に気づき始めている人も多い。

エスカレーター横の壁面には自動掃除機ルンバの広告がでかでかと。人間にとって適当な便利さとはどの辺までなのだろうか。私がルンバを使うためには、まず、床に積まれた大量の本を片付けなくてはいけない。それこそ重労働だ。

電球という家電の中でも最もプリミティブな商品を求めてエスカレーターに乗りながらそんなことを考えた。

今、テレビで日本には資産8000万円以上の富裕層の数はアメリカに次いで世界で2位、30人に一人が富裕層だと言っている。私はこんなこと考えてるから富裕層になれないんだよなあ・・・。


日本人って何?と考える日々。ここ数日の備忘録

2012-11-05 08:24:01 | Weblog

「橋本治の立ち止まり方」という本を買う。あいかわらず示唆にとみ、方法としても参考になります。また、先日聞いたネットラジオ、ラジオデイズの内田樹&平川克美対談「ぼくらのヨシモトタカアキ」と「村上春樹ノーベル賞受賞記念対談(予定)」もとても面白かった。最近、日本人とは日本とは何かを考えることが多いのですが、そのとっかかりとなるような話が満載。同時に読んでいる「建築における「日本的なるもの」」(磯崎新)にも気づかされる所多く、日本の歴史を学ばねばという熱は上がる一方。まあ、体系的に学ばずとも、こうして断片的なるものが繋がって行けば良いのか。にしても、これまで歴史を知らなさ過ぎたわけです(恥)。

「ぼくらのヨシモトタカアキ」では、戦中派の特殊性を語っていました。軍国少年として多感な時期を過ごし、終戦で、すべて嘘でしたと言われた世代。人は自分の根拠となる思想の正当性を見いだしたいものですが、彼らは、封建的だった自分の子供時代になんらかの正当性を見いだそうとする人たち。そんな彼らは、封建時代の思想などまるでなかったかのように捨て去り、かつ簡単に保守に転向してしまった左翼の脆弱さを責めるのです。戦後左翼の問題点は、長い歴史の中で培われた目に見えない日本人の心性、たとえば、天皇制との関係などまったく分析もしないでスルーしてきたあたりにあるのでは…というような点。天皇制の是非は別にして、歴史的に天皇っていったい何だったんだろう…ということは、このところ私も気になっていたことで、大河ドラマ平清盛における帝や法皇を見るにつけ、被災地に行かれる今上天皇の姿を見るにつけ、保守って何?革新って何?日本人って何?という疑問が頭をもたげているわけです。

「橋本治の立ち止まり方」でも、天皇制について言及しています。もちろんそれがいいとか悪いとかの話ではなく、象徴となられてからの天皇は、まさに象徴たらんと、象徴とはいかなるものであろうかと常に考え抜かれていて、その姿勢が今の天皇皇后の美しさに繋がっていると書いています。引用ーー「天皇としてあること、皇后としてあること」は「人としての孤独」につながるものであり、だからこそこの二人の間に存在する紐帯は、比類ないほど美しい。ーー引用ここまで。橋本治は、これまであまり興味を持ってこなかった今上の天皇皇后の姿を、ふとテレビで見て、日本で最も美しい夫婦像だと驚くのです。これまで興味を持ってこなかったとはいっても、橋本治の場合は、「院政の日本人」という本まで出していて、過去の天皇制についてはいろいろ考えているはずです。

やはり、私たちは明治維新以前の、つまり近代以前の日本人の歴史も、年号の記憶としてだけでなく、きちんと学ばねばならないなあと思います。戦後から現代のことは、ほとんど戦前との対比の中で語られますが、その戦前とは明治維新以降の戦前でしかありません。しかし、日本人の心性はそのずっとずっと昔から形成されてきている。

かつては中国、開国後は欧米の文化を取り入れ、和様化することが日本の特性であるならば、日本的なるものとは何なのか?だとすると、昨今のカタカナ語の反乱も和様化の一過程なのか・・・?

日本がうまくやっていける道筋は、どういう方向なのでしょう。
今はちゃんと「立ち止まって」そういうことを考えるべき時なんだと思います。

ところで、内田樹&平川克美氏の「ぼくらのヨシモトタカアキ」で、もうひとつ面白かったのは、日本の知識人の正統な系譜は、外来の難しい知識を平易な日常の言葉にして伝えることであると言ってたことでした。

漢文の時代に仮名文字で文章を書いた紀貫之とかそうなんでしょうね。漱石の「吾輩は猫である」は、西洋思想の啓蒙書であると内田氏が指摘していました。登場人物の会話の中に、先端の西洋思想が織り込まれ、小説を読んだ人はそれをいつのまにか理解できているそうです(私、「吾が輩は猫」は読んでないのです)。
そして、吉本隆明がその流れの一人であるという話。

私がずーっと読み続けてきた橋本治という人は(平家や源氏は読んでないんですが、これから読まねばと…)、外来思想の翻訳はやらないけれど、さまざまなもやもやを日本人なら誰でもわかる言葉で書くことに徹しているという点では、正統派知識人ではないかと思うのですが、世間ではあまりそうは思われてない気がします。というか、知らない人が多すぎる。こんなにもっともなことしか言ってないのになあ。

自分が理解できてるからといって、難しい言葉をそのまま使ったら、それをまだ理解していない人には伝わらない。なのに、専門家と言われる人の文章にはわからない言葉が多すぎる。せっかくの研究成果もそれでは一般に広まらないです。

平易な言葉に翻訳できない人は安易にコピー&ペーストする。ネットの普及もあって、そんなことも横行して知性の劣化も危ぶまれる。分からないことをありがたがる風潮をやめ、分からないことを分かろうとする姿勢、難しいことを広く伝えようとする姿勢を復活させねば、日本ってやばいんじゃね?と思います。

難しいことを易しく、易しいことの中に本質を見つける。そんな基本が忘れられている気がします。

今って、正統派知識人っているのかなあ…。

なんか、まとまりませんが、このところこんなことを考えながら日々過ごしております。


音読みの漢語も外来語。コンプライアンスを大和言葉で

2012-10-08 22:57:12 | Weblog

このところ、テレビ番組のナレーションを書く仕事を本格的にやりだして

あらためて感じていることがある。

音読みの漢字の熟語は音で聞くと伝わりにくいということだ。

当然といえば当然なのだが、あらためてナレーションという

音だけで伝える(もちろんテロップを入れることも可能だが)文章書きを

報酬を得る専門職としてやってみると、実感する。


例えば、「貴族の時代、庭は遊興のためのものでした。」の「遊興」という言葉。

こうして字で見れば、当然よく分かるのだが、

ナレーションとして音で聞いた時、まあ前後の文脈から遊びのための庭だと分かるが、

やはり0コンマ1秒くらい引っかかる。


もちろん、漢字の熟語はもはや現代日本語に浸透していて、

ほとんどのものは音だけで聞いても理解できるものが多い。

政治、政府、社会、環境、防衛などなど・・・。

 ニュースなどで登場する上記のコトバはかなり一般化しているし、

状況や状態を表す名詞は音で聞いただけで比較的意味を理解できるものが多い。

これらが分かりやすいのは明治以降、西洋の概念に漢字を当てた

和製の漢語だからなのかもしれない。


 しかし、さっきの「遊興」のような、動作や行動を表す

音読みの漢語などは、音だけで聞くと、

一瞬(ほんとに一瞬)「?」が点灯したり、

どうもこなれていない感じになることが多い気がする。


なんというのか、

漢字という箱の中に入った言葉の意味を

まだ取り出して紐解けていないというか、

自分が、その文章で表現しようとしていることを

ちゃんと理解しきっていない感じがするのだ。


「遊興(ゆうきょう)」と言うよりも、

「遊び、興じる」と言った方が、音で聞いても分かりやすいし、

意味も明確になりますよね。


漢語で表現された意味の塊を、ちゃんと大和言葉で表せて初めて、

言いたいことが自分でも理解できている状態といえるのではないか。

外国語を外国語として理解しようとする外国語の習得と違って、

外来語の理解ってそういうもんではないだろうか。


そんなこんなで、

ナレーションを書きながら、いかにこれまでの普段の会話の中で、

意味の曖昧なまま、安易に音読みの漢語を使ってきたかを実感している。

それは近代に生まれた和製漢語とて同じこと。

例えば「概念」って、「おおよその意味」って感じの理解でいいんだっけ?

辞書を開かず説明しろと言われると心もとない。


さすがに、もはや日本語となった漢字の熟語を使って、

「意味分かってんのか!」と突っ込まれはしないだろうが、

よくよく考えれば、その漢語さえ、私たちはいまだ使いこなせていないのだ。

 

その上、自分の言いたいことがいまひとつ曖昧な時に、

 ものごとをそれらしく見せるために漢語を使っているような気さえする。


漢字が日本に入ってきて2000年。とはいえ、もともと外来語なのだ。

いまだ、音で聞いただけでは、一瞬ピンとこない漢語が多いのも当然かもしれない。

それがゆえ、使い方がちょっとくらい曖昧であっても

突っ込まれないと踏んで、私たちは漢語を使って来たのかもしれない。


そんで結局、何が言いたいかというと、

これって、「コンプライアンス」とか「リテラシー」とか

横文字の外来語を使う時も一緒なんだろうなあ・・・ということ。


2000年の付き合いのある漢字の熟語でさえこれなのに、

毎度、横文字連発している政治家や評論家の方などは

もっと付き合いの歴史の浅い外来語の意味をどれほど深く理解して

使っておいでなのだろうと思う。


一度、すべて日本語で説明して欲しい。

テレビ出演の折など、音で聞くことしかできないときは

なんなら、音読みの漢語も使わないで

大和言葉で説明していただけるとありがたい。


そのときに、彼らが日常主張している内容が

どのように違って聞こえるのか、それとも違いなどしないのか

それをとても知りたいと思う今日この頃なのである。










 

 

 

 


終の住処

2012-10-07 20:38:26 | Weblog

今朝、野良猫の終の住処と書いたけど、

自分の終の住処はどこになるのだろう。

40代も半ばとなり、ふと頭をよぎる。

生まれた土地から遠く離れた場所で糊口を凌ぎ、

いまだ賃貸住宅。

家を持ちたいとは思わないけれど、

鴨居にくぎを打ったり、柱にペンキを塗ったり、

自由に家をいじれたらと思う。

この世は仮の宿りというし、

どんなところに住んだってそれは仮の宿りなのだろう。

豪華な家を持ってもかりそめ、

方丈記のごとくに方丈の庵でこと足りるのが、

震災後の日本の目指すべき姿・・・なんて思うけど、

やはり洋服は好きだし、本も捨てられない。

中華料理屋ばりの火力で炒め物をしたいと思うし、

本当は縁側か坪庭が欲しいのだ。

それを欲望というか文化と呼ぶか・・・。

 

それを文化と呼ぶ家には住みたくない。

 

家は欲望の塊。

子供の頃住みたかった家は、

たくさんの部屋が万国旗のように各国仕様になっている家。

中国の部屋、インドの部屋、中東の部屋、アジアンリゾート、

ヨーロッパアールデコ、アメリカンコミック、ロシアの客船、

そして桂離宮・・・・。

もうわけが分からない。

 

住めば都な人になりたい。

いや、どんな古い家にも住める私は

十分、住めば都な人間なのかもしれないが、

最近、自分なりの条件に合う賃貸物件が少なくなっている。

 

ここならいいという基準は

日当り良く、窓が部屋の2面以上にある、

窓が開く(窓の開かない高層マンションとかもってのほか)、

畳の部屋がある、そんで障子が入ってて欲しい、

大きな押し入れが欲しい、近くに緑がある。

洗濯物がたくさん干せる。

ほんとうはひろーいベランダとか屋上とか庭に

青空の下、洗ったシーツをはためかせるのが幸せの象徴と思っている。

そんくらい。

ようするに風通しのいい家。

そのくらいのことがなぜ実現できないのだろう、今の日本。

 

 

 

 

 

 


野良猫の終の住処

2012-10-07 08:03:45 | Weblog

玄関先に、菊炭が数片残ったみかん箱ほどの段ボールを置いていたら、

数日前からそこに野良猫が住みついている。

出かける時にも、帰って来た時にも猫は箱の中におさまっていた。

少し毛が抜けて、かなり人を警戒した目つき。

なんとなくくぐもった息の音がするのは、

どこか身体の具合が悪いんじゃないかと思わせる。

だから、炭の上に横たわっているのだろうか…。

動物の方が炭の癒しの力を分かっているのではないか…。

 

多分身体も弱って、餌も探せないのではないかと思い、

3日目の朝、煮干しをやった。

食べはしたけれど、その猫に煮干しはちょっと固かったようだ。

箱の中に水の入ったプラコップを置こうとしたら、

シャーっと威嚇してきて、そのあと箱の中からいなくなっていた。

しかし、1時間もしたら、また戻って来ていた。

 

この辺の野良猫はたいてい道端で寝ている。

なのに、こんな人家の前に置かれた段ボール箱に入っているというのは

何か事情が有るに違いない。

やはり、怪我をしたか、病気で弱っているか。

 

出かける時、帰宅した時、その猫は私のことをジロッと見上げる。

このままこうして、奴はこの箱の中で息を引き取るのだろうか・・・。

 

そしたら、お墓はどこにしよう…。

東京みたいな平地ばかりの場所には、動物を葬る山も無い。

土はアスファルトで固められ、掘り返されることを拒否している。

 

いや、奴は別に病気などではないのかもしれない。

ただ単に、快適な場所を見つけただけにすぎないのかもしれない。

 

昨夜、家に帰って来たら、箱の中に奴の姿はなかった。

箱の中には、残された菊炭が数片。

煮干しはきれいに消えていた。

明日の朝には戻って来ているだろうか。

猫の行く末を案じながら眠った。

夜が明けても、猫の姿はなかった。

もう戻ってこないのだろうか。

箱の中の菊炭はしばらくそのままにしておこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「曲先、詞先」と「映像とナレーション」から考える「自分の言葉」の大切さ

2012-09-28 07:44:45 | Weblog

<テレビ番組における詞先と曲先(画先)>

曲先、詞先というのは、歌を作る時に曲と詞のどちらを先に作って合わせるかということだけれど、それって、映像とナレーションの関係に似ているなあと、あらためて思った。

そんなことを考えて、このブログを書き始めたら、丁度NHKでプロフェッショナルの脚本家・遊川和彦の回の再放送が始まった。

ドラマの脚本は、映像に言葉を乗せていくナレーションと違って、文字から映像を興していく。言ってみれば「詞先」だが、もともと脚本家の頭の中にある映像を脚本という文字にしているから、ある意味映像が先、純粋に「詞先」ではないかもしれない。

脚本家のイメージは文字に媒介されて、演出家という別の人間の頭の中で再び映像化され、そのイメージによる演技指導と脚本をもとに演者たちが演じて最終的に映像と音で再現される。そして、その脚本家から演者に至る文字とイメージの変換がうまく行けば、そのドラマは、多分、多くの人の心を動かす。

取材ものの番組のナレーションは、基本的には、映像を繋げた後に、それを見て書き上げる。歌で言えば曲先、画先の世界だ。もちろん、映像を編集する前の段階で、編集のためのガイドとなるラフな構成原稿はあったりするが、より映像イメージにあった、音で聞いても美しいナレーションにするのは、映像が繋がって、それを見ながらとなる。映像から喚起される言葉というのは確実に有る。先に自分の思いから湧き出た叙情的な文章を書いても、実際に撮れた映像のイメージがそれと合わなければ、そのナレーションは生きない。

 一方、ニュースなどの速報性を重んじるものは、編集を速く上げないといけないのもあって、先に原稿を作って、それにタイムを合わせて映像を繋いでいくことが多い「詞先」だ。もともと制作系の番組にいた私は、情報番組や報道番組など、生放送の番組をやり始めた時、この、放送用原稿を先に作ってから編集するシステムに驚いた。

 

<今回の仕事はまさに「曲先」> 

ところで、私は最近、構成作家としてナレーションの仕事をしている。報道ではなく、おもに日本文化や自然を扱った取材ものだ。こうした番組の構成の場合、ディレクターが取材をしてくるので、私は、打ち合わせのもと、彼が取材してきたVTRの映像と彼がそのVTRを編集するためにラフに書いた構成や、このブロックではこういうことを言いたいという仮のざっくりしたナレーションを元に、資料などもふまえて、より分かりやすく整理され、音で聞いて美しい文章に書き換えていく。ただ、今回は担当のディレクターが極端に自分の作品に他人の意思が入るのを拒み、ほとんど打ち合わせもせず、取材内容についての何の説明も無く、ただ、繋げられたVTRと仮のナレーションだけを渡して、書いてくださいという状況であった。しかも、文章を整理し美しくするレベルでは、番組としてOKレベルに達しない感じだったから、映像を頼りに、再度内容を練り直すことになった部分も多かった。伝えるべきことを、独自の資料で裏を取りながら、新しいナレーションで埋めてゆく。ただ、映像はもう繋ぎ終わっているので、面白ければ、どんな文章でも入れればいいというわけでもない。伝えるべきことの中で、その映像に最も合ったものを選ぶ。

まさに「曲先→画先」だ。

最初は大丈夫だろうかと思っていた。映像は違う意図をもって編集されたか、もしくは綺麗なものを漠然と繋いでいる。そこに、さらに異なる意図のナレーションをつけていって整合性はとれるものか・・・?

しかし、実際に作業をしていると、しっくり来る文章が意外と見つかることに気づくのだ。私が当初から構成に組み込むべきだと思っていた内容で、かつディレクターは外していたというような文章を乗せてみても、意外と大丈夫だったりするし、当初ノーアイディアでも、映像を見ていると、ふっと言うべきことが浮かんでくる。

考えてみれば、こういうことは、このディレクターとの仕事に限ったことではない。

 

<言葉では説明できていなくても映像が語る>

ディレクターから渡される仮ナレは、何がいいたいのか明確でない部分が結構有る。特に、取材したものの本質を最後にまとめて語るような部分とか、ブロックとブロックを繋ぐときの論理展開の部分が曖昧なことが多い。しかし、最初は「なんだよ、わからないよー」と思いながらも、映像をじっと見ていると、ディレクターが言いたいであろうこと、もしくはそこで語るべきことが、取材に行ってなくてもなんとなく見えてくる。ディレクターたちが、自分で書いた仮ナレーションでは表現しきれていないものを、繋がった映像が無言で語っているということがあるのだ。

ディレクターたちは、多分、「言葉で」うまく伝えられていないだけなのである。

多分、言葉以前の意識の段階では、自分がこの映像で何がいいたいか漠然と分かっているのではないだろうか。しかし、ナレーションとして言葉にしようとすると、それを正確に表現できず、結果、頭に浮かんだ美辞麗句を並べて、なんとなく仮ナレの形にしてるのではないかという気がする。正確に他人に意図を伝えるのは案外厄介で、自分が思ってるほどには他人に物事は伝わらないものだ。

一方で、映像や音声はより無意識を映し出すから、そっちの方には本意が滲んでたりする。

 

<「“言葉”で伝えられないこと」が生む誤解>

しかし一方で、言葉で上手く伝えられないということは、説明を受けた側からすれば、「こいつ分かってないなあ…」ということでもある。それで、適当な仮ナレーションを書いてしまったディレクターは、プロデューサーから「意味分からないよ」という批判を浴びることになる。

そういう場合、批判された側はよく「上の人は分かってくれない」と思ったりするが、それは、言葉に変換できなくても、自分の中ではなんとなく分かっているつもりだからだ。でも、上手く言葉にしないと他人には伝わらない。

このように、批判された側が反発を抱くのは、自らの無意識を意識化するための表現能力が乏しいということを本人が理解していないからではないのだろうか。面白いものを発想する才能がどうとか、そういうもんではなくて、それを伝えるコミュニケーション能力、言語能力の問題ではないのかと思う。若い人で、その辺を誤解して、ちっとも言語能力を磨かずにプレゼンで失敗している人をよく見かけるのだ。

ただ、本人が言語化できなくても、彼らが繋いだ映像が物語るものはあって、そこから第三者が、彼らと同じようなものを感じ取ることは有り得る。

ナレーションを、取材した本人ではない構成作家が書き直すことに意味が有るとしたら、分かりやすく、美しい文章に書き直すだけでなく、別の人間が同じ映像を見ることで、取材した本人も気づいていなかった、映像に潜む無意識を発見することなんではないかと思う。

とはいえ、やはりそんな無意識にも濃淡あって、編集する本人にあまりに思い入れがないと、あまり感じられない気もする。

それに、ディレクターが意識していないものを発見するのは、あくまでおまけの部分であって、基本的には伝えたいことを明確にして、お互いの知識を出し合ってより良いものにすることが本来だと思う。やはり、言語による説明能力は大切だ。

さらに、このことから、最近のこんな傾向のことも考える。

<コピー&ペースト蔓延の弊害>

私たちが何かを伝えたいと思って言葉を発する前には、頭の中になにがしかのイメージがあり、それを言語に変換する。そして、言葉を受け取った人は、その言葉を、自分の頭の中でイメージに変換できて初めて物事は伝わる。その人がさらにそのイメージを自分の言葉に変えて説明出来れば、伝達は完璧だ。

ネットの文化が浸透しだしてから、コピー&ペーストということの弊害がよく言われるが、言葉を言葉として受け取り、自分の頭の中でイメージに変換すること無く、文字そのままで第三者に伝えても、その人の文章は理解に繋がる説得力は持たない。そして、最近、そういう場面によく遭遇する。

一緒に仕事をする若いディレクターたちが、言葉で自分の意図をうまく伝えられないのも、もしくは自分の意図がまるで存在しないかのような文章を書いてしまうのも、こうしたコピー&ペーストが浸透し切ってしまって、自分で噛み砕くということや、自分の意図を表現するためにぴったりの言葉を探すという作業をおこたっているからではないかと思える(実際にどうかはわからないが)。

映像の文化は、本当はナレーション=言葉など無くても良いのである。映像から喚起されるものからナレーションは書き始められることから考えても、言葉はイメージの従者かもしれない(もちろんその逆もあって言葉が喚起するものもあるが)。

しかし、それで言葉は重要ではないということではない。言葉の運用をコピー&ペーストで済ませるということは、物事の理解や自発性の放棄でもある。そうなると、言語能力の乏しさから来るコミュニケーション不全などというスキルの問題ではなく、自分で考えないという本質的な問題になってしまう。やはり、イメージを言葉に置き換えられるということは人間の特権である。現代の人間が、直感など肉体に直結した野性的な感性を忘れて、脳的な言語の奴隷になっていると言われるのは、音声と文字からなる言葉の本質や本来の意味を理解せず、わかったようなわからないような外来語の羅列や、どこかのコメンテーターの言葉を引用して世の中を分かったような気になっているからなのではないだろうか。

そして、そういう言葉の使い方の傾向は、政治家をはじめとしたエリートと呼ばれる人々に多いのもなんだか頭が痛いのだ。

 


サイコロマン個展へ行ってきた

2012-05-01 01:15:43 | Weblog

今日、知人のサイコロマン氏の個展に行ってきました。

個展のタイトルは「神の味噌汁~Who knows」

<紙製立体作品の空間設置、電子画像出力作品>

紙のサイコロマンが、いろんなところに出没します。

アーティストもサイコロマン氏なら、

作品に登場するのもサイコロマンです。

こいつらが釣り竿でぶら下げられたり、ちょこんと座らされたり。

今回は、瀬戸内の島が舞台です。

海に接してる部分だけは後で加工してますが、写真自体は合成ではありません。

以下のタイトルは「静かの海」

 

「明るいきざし」

 

「終われない夏休み」「夏、降り立つ」

ほかにも作品多数。

会場には、こんな小さなサイコロマンもいました。

1000円にて販売とのことだったので、早速購入して、

私もサイコロマンデビューです。

 

さっそく、ギャラリーにて初サイコロマン撮影!

お、僕の作品を見てくれている人がいるぞ!

みんなと一緒に、個展開催のお祝いビール!

  

滑った!

ギャラリーを出た後、アメ横へ行きました。

居酒屋に行くべきか・・・

   

焼き肉にすべきか・・・

結局、京浜東北線と一緒に帰宅なり~。

サイコロマンはどこへ行く。     

撮影 YURI NAKAMURA  ©サイコロマン

 

みなさんも、サイコロマンを旅させてみませんか?

サイコロマン個展「紙の味噌汁 Who knows」

4月24日(火)~5月3日(木)まで

AM11:00~PM7:00(最終日5:00まで)

場所:自由が丘「もみの木画廊」

東京都世田谷区奥沢6−33−14もみの木ビル201

TEL03-3705-6511

 


だんしがしんだ

2011-11-24 06:28:14 | Weblog

ずっと昔、90年代の半ばだっただろうか、ちょっとだけ立川談志の番組にADとして関わる 事があった。

 打ち上げの席で、弟子も交えて山手線ゲームをやったとき、頭に「あ」のつく有名人というお題に、「アイ・ジョージ」と「愛新覚羅溥儀」を挙げて、喜んでくれたことが思い出である。

「芝浜」は談志のが好きだった。あの芝浜を聞いて、同じ演目でも演る人によって全然違うものになることを知った。なぜか「紙入れ」のおかみさんの描き方が好きで印象に残っている。柄でもないが、あんなちゃっかりした女の人になりたいなあと思ったものだ。

ほんの短い間の思い出である。しかし、何が面白いか、何がいいものかということを教えてもらった。

家元は根津に住んでいるのに、ほとんど会うことはなかった。夏に、談志の住むマンションの一階にある桶屋さんを訪ねた。火鉢クラブ納涼会で使う桶を借りに行ったのだ。たまに談志さんがここで話を聞かせて下さると、桶屋の娘さんが話していた。桶を作る板の間に座布団しくか、もしくは土間にいらない板を椅子代わりに置いて、3人か4人に向けて話したのだろうか。混ぜてもらいたかったなあ。

仕事をした頃からもう十余年、ずーっと、また独演会にと思いながら、だんだん遠い存在になっていた。しかし確実に、20代の私に、芸とは何かを考えさせてくれた人の一人である。おもいつくまま書いた。

以上は、死去の速報の直後、facebookにも投稿したものを小直し。


ここからは、今、24日早朝。

新聞を取りに外に出た。一面に談志さん死去の見出し。曙の東の空を見上げると、お日様より一足先に細い細い月が昇っている。たしか明日は新月で、消え入る直前のはかない月が、薄い紅色と薄い水色が溶けるあたりに浮かんでいた。そろそろ日ものぼってくる時刻だ。

合掌。



久々にブログ再開。仕事辞めて1年半、やっと不惑の再出発の気分です。

2011-10-24 04:33:15 | Weblog

久しぶりのブログアップです。ツイッターの自動掲載以外の記事は、9月26日以来。下書きに2つ程アップしようとした形跡はあるものの、完成に至らず、下書きのまま捨て置かれています。

お盆に開催した火鉢クラブ主催の納涼会の準備や後片付けが思いのほか大変で、その後、灰になっておりました。灰になるだけならいいのですが、少し症状が出始めていた四十肩が悪化、夜も寝返りが打てない、じっとしてても痺れるという状態になってしまったのです。なんとか昼間の活動はこなしましたが、ブログのアップまでは気力がありませんでした。よる年波には勝てませんなー。もう、「がんばる」だけでは物事はこなせない。剛ではなく柔の身のこなしを身につけねばとひしひしと感じています。甲野善紀先生の身体操法学ぶベか~。

そんな身体的には季節の変わり目の辛さを感じる今日この頃ではありますが、納涼会終了から現在までの2ヶ月の間、京都で行われた、茶の湯炭の世界全国大会に参加したり、1日限り、超小規模のプチ火鉢カフェをやってみたり、それを時代劇チャンネルさんに取材していただいたり、なんやかやと楽しくやっておりました。また、通常の火鉢カフェも11月後半にやろうと画策中です。

ところで、TVの仕事辞めてからもう1年半です。完全に日常生活のあり方が変わりました。収入が無く、貧乏生活を続けたせいで、お金があまりなくても比較的平気な事、でもあんまりない期間が長く続くと疲れてくる事を実感。

また、いくつかモノ作りをして売ってみた体験と、震災後の状況の変化などから、日本人の消費行動とか、寄付に対する考え方とか、震災前とはちょっと違った見方をするようになりました。震災前に考えて始めた寄付付きメイドインジャパン商品の販売も、多くの方にご協力いただき、実現したのですが、震災後、ちょっと方針を考え直すべく、新たな商品開発は行っていません。

NGOへの寄付とメイドインジャパン応援を両立できると思った始めたのですが、実際にご協力いただける会社は、比較的余裕のあるところで、本当に助けねばならない会社などは、そんな余裕さえない感じです。それに、それなりの大きさの会社の場合、小ロット生産は、かえって迷惑になってしまうこともあります。当初は私も、この新しい商品のあり方をアピールして、それなりの数の受注をと考えていました。しかし、そのためには結局、既存の流通や宣伝方法を採るしか無く、震災後、雨後の竹の子のように大企業のチャリティ商品が安価でかつ、高い寄付割合で出てきて、そのネームバリューで、ネット販売なども伸びているのを見ると、これは勝負にならんわと、大企業と零細の格差を見せつけられた次第です。やはり、零細は地道に小さいロットで作って、じわじわ人気が出るのを待つ戦略しかない。限定の魅力でやるしかない。それなりの大きさの工場との仕事はなかなか難しいなあと思います。

繊維関係のジャーナリスト南充浩さんがブログで、「メイドインジャパンブームは消え去る前の一瞬の輝き」という記事をアップされています。メイドインジャパン、メイドインジャパンと騒いでも、結局、職人として働こうという若者はそうそうおらず、現在70代だの下手すると80代の職人に支えられている繊維産業は風前の灯であることには変わりがない。メイドインジャパンは最後の輝きを放って、近いうちに消えていくだろうと皮肉まじりに書かれています。

その通りなのです。結局は私がやっていた事も、自己満足でしかなく、問題解決には焼け石に水。それだたら、商品開発などやらずに、TPP反対のブログでもせっせと書いて、拡散させていた方がいいのではないか・・・。南さんのブログを読みながら、自分の浅はかさとともに、自分は何がやれるのか、日本のもの作りとは何かをいま一度考えています。

おりしも、先日、中沢新一氏が明治大学で立ち上げる「野生の科学研究所」の開所シンポジウムに行ったところ、この研究所では、経験によって培われる日本の職人の技術を分析して、数値化したり、一般化して継承できる形にする作業をやっていきたいとの話。もちろん、職人技には説明できない部分がありますが、後世の人間が、その技を再現したいと思った時に、少しでもガイドになる資料を作っておきたいとのことのようです。風前の灯となった日本の職人の技術にとっては、そちらのほうが全く有用ではないか。そう思いました。

私がこの一年間、勢いにまかせてやってきた活動の中には、今後も続けていくべきことがらもある一方で、浅はかだった部分もあります。震災を経験し、さまざまな問題点や今後の日本のゆく道が少しずつ見え始めている今、いま一度この1年にやってきたことを見直し、自分のやれる事をピックアップしたいと思います。

自分が携わるモノ作りに関しては、小ロットで作れる範囲のものを細々と作っていきたいと思います。そしてやはり、文章を書いたり、アイディア出しをしたり、炭の良さを広める火鉢カフェイベントをやったり表現する事を仕事の中心にしていきたいと思います。この通り、文章は稚拙ではありますが、なんとか書き続けたいと思います。

納涼会の後、無記名ではありますが、ライター的な仕事をひとつさせていただいています。さすがに生活費を稼がないとやばいので、ちょうど話があったこともあり受けさせていただきました。日々、勉強になっています。20年続けた仕事を辞めて、ぎりぎりガケップチまで行って、どうなることかと思いましたが、やっと先が見えてきそうな気がしています。あとは、来年6月の住宅ローンモラトリアム終了までに、収入をもとにもどすことを目標に、不惑の再出発がやっとここら辺から始まったのかなあという感じです。

というわけで、しばらく休んでいたブログを再開します。

最後に改めて、この一年間、ご迷惑をおかけした皆様、色々ご協力いただいた皆様、本当にお世話になりました。ありがとうございました。これからもよろしくお願い致します。

 

 

 

 

 

 

 


今日18時ごろ 上野広小路ビル火災。出火場所の謎(情報はまだ正確ではありません)情報追加

2010-07-31 00:10:46 | Weblog
<一番最後に、別アングルからの火柱の写真を追加しました。どなたかのtwitpicへの投稿のリンクです>

さっき、眼鏡の修理に上野広小路に行ったら、
ビルの屋上に黒煙があがっていました。すぐに消防車が到着。
一時は、黒煙の中に、炎もボッと上がり緊張感が走りましたが、
消防の方の迅速な消火活動で、屋上からの煙は30~40分ほどでおさまりました。

上野広小路ヒ?ル火災


ただ、6時台の
日テレnews24のライブ報道によると
火はビルの1階と2階の約100平方メートルを焼き、
6時56分現在延焼しているとなっています。

私は中央通りを挟んで反対側にいたので、1、2階のことはよくわかりませんでしたが、
私のように通りを挟んでこの火災を見ていた通行人は
1、2階が燃えてるようには思わなかったのではないでしょうか。
屋上もしくは最上階の飲食店から火が出たようにしか見えませんでした。
反対側への通行は一時的に止められていましたからほとんどの人が対岸からビルの屋上を見上げていました。

上のyoutubeの映像を見ていただいても、そういう風に見えるんじゃないでしょうか?
詳しくは、さらに後の時間のニュース報道を待ちたいと思いますが、
確かに、屋上にも火が上がったのが見えたので、
1階2階の火が上がって行ったとしたら一体どういう状況だったのか??
考えると怖くなります。

というのも、ビルの屋上から煙が見え始めた時、
すぐ下の階の飲食店の窓際のお客さんは普通に座っていました。
気付いていなかったのではないでしょうか。
火災報知器が鳴っていたのかどうか?

出火場所などは正確にわからないので、適当なことは言えませんが、
屋上から上がっているように見えた黒煙と激しい炎(炎は一瞬でしたが)は、
一体どこから上がっていたのか??

とりあえず、今後の詳しい報道を待ちたいと思います。

<ここから 31日0時10分に追加情報>
さっき、twitpicにどなたかが、
屋上から火柱が大きく上がっている写真をアップされてるのをみつけました。
屋上からの火柱の写真
私のビデオとは別角度からの撮影で、はっきり炎が見えています。

突然ですが、ゆうちょ銀行だいじょうぶか?!

2010-05-23 02:55:21 | Weblog
昨日、やることがあるにもかかわらず、勢いで一気にブログを書いたのに、間違って消してしまうという愚挙を犯してしまった私。今日は、一箱古本市一日目も終わり、さらに友人との飲みを経てさっき帰宅したばかり、昨日書いたテーマを掲載する気分ではないのだが、折角なので、再度書いてアップしとこうと思う。
そのテーマとは、ゆうちょ銀行のことだ。
実は昨日、振込をしようと思って近所の郵便局に行ったのだ。長野県の小さな村で染め物をやっている方から、藍染めのストールを購入。その代金を払うためだ。送られてきた藍染めのストールは、6800円という値段ではもったいないほどいい感じ、これは今後相当使える!と、やや興奮気味で、早く代金を払わねばと包みの中の振込表を探った。中には、振り込み口座を書いた紙が入っていて、代金は口座振込でやっているようだ。で、そこに書かれていた口座というのが、ゆうちょ銀行とイーバンク銀行2種類の口座だった。この2種類という事から、その長野の村が本当に小さい田舎の村だということが分かる。多分、近くに金融機関は郵便局しかなく。それで、ゆうちょ銀行とネットのイーバンクなのだろう。郵政民営化の後退だと言われながら、ユニバーサルサービスを存続させると主張する政治家は、まさにこういう地域の郵便局を無くさないために動いているはずだ。

私は、買い物に出たついでに、ゆうちょ銀行の方へ振り込もうと思い、近所の郵便局に寄った。ATMの前には女性が一人、順番はすぐに廻ってきた。
郵便局のATMを使うのはもう何年ぶりだろう。大学で東京に来た時、親からの仕送りを受け取る口座として郵便貯金の口座を作ったが、それは卒業し就職すると同時に使わなくなった。残高の数百円はどうなったのだろう・・・そんなこと思いながら、順番が回ってきてATMの画面を見た。すると、なんだか普通の銀行と書いてある言葉が違うのだ。もうどういう項目があったかうろ覚えだが、「振込」は「他の金融機関への・・」となっていて、じゃあゆうちょ銀行への振込はどこでやったらいいんだ??と戸惑った。ゆうちょ銀行口座からのお振込みたいなのはあったので、まあいいや、とにかくカードを入れてみようと思って、自分のメガバンクの口座のキャッシュカードを機械に突っ込んだ。そしたらなんと、「このカードはお取り扱いしておりません」だと。がーーーん。
で、現金で振り込めないかと一生懸命画面の項目を解読しようとしたが、どうしてもそのように読めるものがない。え?じゃーどうすればいいの?どうやって振り込めば良いの??私はちょっと目眩がした。で、窓口にいって、ゆうちょ担当の職員に尋ねると、その職員、ものすごくテンパってて、「ちょっと待ってもらえませんか」と汗流しながら言うのだ。確かに、郵便局は混んでいた。待っている客の多くが、ゆうちょ関係の客なのだろう。小包のとこ空いてるし。しかし、いまや郵便局内の業務は分社化され、切手や小包担当の郵便会社さんは、ゆうちょ銀行とは会社違うのよね。彼の事を誰が助けるでもなく、彼は大変そうにしておりました。で、みかねた郵便のところにいた女性の職員が私の疑問を聞いてくれた。

私「ゆうちょ銀行の口座にお金を振り込みたいのですが、ATMでできないみたいなのでどうすれば??」
職員「ゆうちょ銀行の口座をお持ちですか?」
私「え、持ってません。ないとATMで振り込めないんですか?」
職員「ええ」
私「現金でも?」
職員「はい」
私「じゃあどうすれば?」
すると職員は、この紙に必要事項を書いてと、振込のための所定の用紙を1枚私の目の前に。でもなんかいっぱい書く所があって、これを書いて、行列の最後尾につくのかと思ったら気が遠くなって「じゃあいいです」と言って郵便局を出てしまった。

郵便局のATMから、なんで、ゆうちょ銀行の口座に振り込めないのだーーー!!!

郵便局が民営化してから何年経ってんだ?? 
とっくに、ほかの銀行との間で振込ができるようにATMも改良されてると思っていたが、まだだったとは。なんでこんなことが問題視されないのだろう??
うちの家賃は振込なんだけど、不動産屋の振り込み口座はみずほ銀行。わたしの給料の口座は東京三菱UFJだったので、みずほ銀行のATMにUFJのカードを突っ込んで振り込んでました。それで手数料は0。これ普通ですよねえ。
それが、郵便局ではできないってことだ。
結局、近所のメガバンクのATMに入った私。イーバンクにはATMから振り込めないらしくて(まあこれはしょうがないか)、結局、ゆうちょ銀行の口座に振り込む事に。ここからは振り込めたが、他行のATMからだから、当然420円もの手数料をとられましたがな。現在、プーの私にとって420円は大きいですわ。 そりゃ、郵便局で並べばいつかは手数料タダで振り込めたんだろうけど、今日は用事があったので急いだんよー。

ゆうちょ銀行は、私が最初の方に書いた、仕送りとか、年金の受け取りとかばかりを想定してる気がする。
だから、お互いがゆうちょ銀行の口座を持ってる同士じゃないとATMで振り込めない。
もちろん「オレオレ詐欺」防止というのもあるんだろうけど、私のように、ただの買い物の代金を払いたいだけの人間に取っては、ものすごくこの仕組みは不便なのだ。

それに、これからの時代、地方の時代というのであれば、今回のような、地方で作られる商品に魅力を感じて東京の人間が購入するという事例は歓迎すべきものではないのだろうか。そうした小規模でも地道な村おこし町おこしに繋がる生産者たちの商取引がよりスムーズにいくための仕組みを、過疎の地にも存在する郵便局こそが模索すべきではないのか。
ちいさいことで、おおげさなと思われるかもしれないが、振込先がゆうちょ銀行だったから、わざわざ郵便局に行ったのに、そこでは振込ができなくて、わざわざ他行から振り込んで手数料取られるなんて、あまりにショックで、ほんとにドーなってるの?と思ったので、やるべきことも差し置いてこんなことを書き綴ってしまいましたわ。

郵政民営化見直し法案、大手金融機関がのきなみ冒険的融資を避ける中、ゆうちょの資金をベンチャーなどに率先して貸し付け、新しい産業育成に役立てたいというのは理解できる。
一方で、預け入れ限度額引き上げが民業圧迫だという声ばかりが聞こえるが、ゆうちょ銀行のシステムがこんなテイタラクじゃ、ぜんぜん既存の民間金融機関は安泰なんじゃないかと思える(まさか、民業圧迫にならないように、わざとシステムも使いづらくしてるわけではないですよね???)。
それに、今日見たみたいな郵便局じゃ、どんなベンチャーが有望かちゃんと目利きできるのかも不安になってくる。どうなんすか原口さん、亀井さん!!
2人ともにがんばってほしいとは思ってるんだけど、今日みたいな事に気付くと不安になります。
他にもこんなダメダメなことが隠れてないか、徹底的に洗って下さい。じゃないと郵政改革法案通っても危ないよ。
よろしくおねがいしまーす。

だまされるな!郵政民営化
荒井 広幸,山崎 養世,八木沢 徹
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挑戦―日本郵政が目指すもの (幻冬舎新書)
西川 善文
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突然ですが、和紙のちぎり絵って知ってますか?一部訂正あり。文中に記載。

2010-03-31 11:11:28 | Weblog
先日から左側サイドバーに、私のもうひとつのブログ「Japan I love! My favorites!!」を載せています。
将来のjapan紹介サイトに向けて、全然しょぼくはありますが、自分の身の回りにある
手近なところの愛すべき日本のものを乗っけてます。
今日は、手前味噌ではありますが、私の母が作った和紙のちぎり絵を紹介しました。
で、こちらでも、ちょっと紹介。

これは花の「カラー」です


田舎で、表具店だけではやってけないので、
母はこのちぎり絵を教えています。教えていると言っても、小規模ですし、
材料代+1000円くらいしかいただいていないので、いつまでもビンボーです(笑)。
(さっきまで、500円と書いていましたが、1000円の間違いでした。私の思い違いです。訂正いたします。)
娘の私から見ても呆れます。
でも、これってもしかしたら「FREE」ってこと?とか思いつつ、
ちょっと先取りしすぎて日の目が見られなかったのだなあとか、
勝手に納得したりして。娘の私がFREEを体現するぞー!なんてね。

というわけで、もうちょっと母の作った和紙のちぎり絵を宣伝。

民話「傘地蔵」より


これは・・?


このちぎり絵を見て興味を持たれた方は、
ここにコメントを下さるか、ツイッターyurysに返信ください。
この辺は大作なので、もっとシンプルなのもあります。

「Japan I Love! My Favorites!!」ブログの方には、また別の作品「富士山と桜」などを掲載してますので、よろしければ見に行ってやって下さいませ。




補足「ツイッターで津波情報、原口総務相が釈明」だそうですが、それがなにか?

2010-03-03 11:44:38 | Weblog
以下のブログではテレビ報道を中心にとりあげていますが、
江川紹子さんのブログを見ると、読売新聞の方が先に報じてたようですね。
それに微妙な内容変更も入ったりもしてたようです。http://ow.ly/1dcrf

以下の記事は速報性に注目したためテレビのことがメインになっていますが、
災害報道が義務づけられる報道機関という意味で、
テレビだけでなく新聞にも同様に言える事です。
ここまで、今日追加しました。

以下は、ゆうべ書いたままです。

なんだか、原口さんがツイッターで津波情報流してたというのを
テレビのニュースがとりあげていましたねえ。
あるニュースでは「総務相が釈明」となってたけど、
なんで釈明なの???
つぶやきを評価するというニュアンスではなくて、
それ大丈夫か的なとりあげ方です。

ある記者が
「成りすましも懸念されるし、総務大臣が出す防災情報として
(ツイッターは)なじまないんじゃないか?」と聞いたんだとか。
けど「成りすまし」問題なんて、原口さんの本人認証マークつければ解決することですよねえ。
もちろん、サービスに入ったばかりで、「成りすまし」という存在を知らない人には危険ですが、それもツイッターが普及していく中で解消するでしょうから、とりあえずすぐやるべきは、公的立場にある人のツイッターは本人認証の印を必ずつけるようにすることでしょうかねえ。

どこの記者が質問したかは分かりませんが、
「総務大臣が出す防災情報としてなじまないのではないか?」
という質問。
「なじまない」ってどういう意味なんでしょう。
「良くないと思います」でもないし、はっきりと自分の意見を言わない微妙な言い回し。じゃあどうしろって言うんだ!!
ツイッターを2ちゃんねるの書き込みとそう変わらんだろ、くらいに思っているんでしょうか。そうしたお墨付きもないメディアに、大臣の発言が載るなんてヤバいということでしょうか。
マスメディアにとって、ネットはすべて一括りで「怪しい」のでしょうか。
(でしょうか3連発!)
テレビ局もツイッターアカウント持ってるのにね。

テレビ局の人はよく、「ツイッターは炎上しないのか?」と心配してるんですが、まずツイッターに「炎上」という言葉はそれこそ「なじまない」んじゃないでしょうか。
そりゃあ、批判が盛り上がるのを今は便宜的に炎上って使ってたりするけど、ちょっと炎上とは違う気が・・・。なんて言えば良いのだろ。
本人には見えない所で凄い事になってたりもするからなあ。
まあ、いいか。
 
ところで、原口大臣はクロスオーナーシップ問題や放送通信事業の規制監督を行う日本版FCC構想を遠慮なく公言しています。
そんなこともあって、マスコミに嫌われてんですよね。
今回のツイッター報道にも、裏にそんな思いがあるような気がしてならん。原口はネットなんて怪しいものを政府に持ち込もうとしてやがる、そんなやつはもぐりだ!的なね。
内心、「本当に成りすましが出て来て、
ウソの防災情報流して、被害者続出。
原口責任とって辞任へ」なんてこと妄想してんじゃないか?

ツイッターやってる側からしたら、なんでこれがニュースなのかよくわからないです。今回の原口さんのつぶやきの件は、ツイッター上の大臣の成りすましの懸念というのが肝なんじゃなくて(解決法があるから)、国民に向けて速報を打つ権利を持っているのは誰なのかという事ではないでしょうか。
大臣に逐一速報されちゃったら、テレビとか意味なくなるものね。
速報性が売りであるテレビ、特にNHKの存在意義の一つは、
広く国民にそうした防災速報などを速報する事。
今までは、防災情報はだいたいテレビの速報から知ってましたもんね。しかし、今やより広く防災情報を伝えられるのは、携帯電話端末だったりする現実があるわけです。
だって、津波警報出た時、海岸の岩場にいたら、
テレビの情報はキャッチできないものねえ。
それに、大臣が直接書き込んだら、テレビ局に情報を伝えて、
そこの記者が文章を打つ時間分省ける訳だからより速報性があります。

今回の問題は、速報性というテレビの存在意義をも揺るがしかねない問題を世の中に知らしめるきっかけになりかねないのでした。

それにしても、大臣でもすぐに自分がメディアになれるほど、
報じるためのスキルは必要なくなっています
(もちろん、ストレートの情報に限られますが)。

しかし、こう誰もがメディアになれると、
本当に不正確な情報も出回りやすくなるわけで、
確かに防災情報などは、情報の出所の確かさを確認することが必要となります。記者クラブ問題として指摘されるような点もある一方で、やはりマスメディアの人々は、そうした情報を扱う事には長けています。なので、彼らが、成りすまし的なものを懸念するのも理解できます。

だから、本当に早くやるべきは、原口大臣!
本人認証ですよ。とりあえず。
そんで、今後の放送と通信のあり方についてじっくり考えて下さい。