ちょっと前に、ネット上で話題になっていた中学生による「メロスの全力を検証」って知ってますか?
(例えばハム速 http://hamusoku.com/archives/8245475.html)
太宰治の「走れメロス」の記述からメロスの平均移動速度を算出し、「メロスはまったく全力で走っていない」、最後の死力で走ったとされる部分も「ただの早歩きだった」という結果に至った数学の自由研究です。太宰が書いた「メロスは疾風のごとく」などという記述も今回調べたこととあまり合っていないと指摘。タイトルは「走れよメロス」の方が合っているという気の効いた締めのコメントもあり、「算数・数学の自由研究」作品コンクールで見事入賞しました。
その研究はこちら http://www.rimse.or.jp/project/research/pdf/work03.pdf
私も最初に見た時はおお!と思いました。で、あらためて「走れメロス」を読んでみたのですが、すると太宰治もそういい加減に書いているわけでもない。太宰の書いた移動速度は、メロスの心の中と照らし合わせるに、だいたいにおいて妥当な感じがしました。最後の疾風のごとく走ったという部分も、その前のメロスの行動を考えれば、そのくらい速く走らないと間に合わなかったと思われます。
考えてみたらメロスが走ったのは片道10里、往復80km。2日目に結婚式があったとしても、3日あれば歩いたって間に合う距離です。むしろ私たち読者が勝手に、ずっと走らなければ間に合わない距離だという先入観を抱いている気がします。
それが結局、ギリギリの到着になるのは、途中で濁流に巻き込まれたり、山賊にあったりしたせいもありますが、その前にメロスが、安心して呑気に小唄を歌いながらダラダラ歩いたからであり、山賊を倒した後、疲労に耐えられず、まどろんでしまったからにほかならないでしょう。
この小説を書く前、太宰は友人の檀一雄をなじみの宿の宿泊代のかたに置き去りにし、自分は井伏鱒二に借金を申し込みに行ったまま、なかなか戻って来なかったということがありました。しびれをきらしてやってきた檀一雄は、のんきに将棋を指している太宰を見て飽きれたそうです。そのときの太宰こそがメロス。檀一雄はセリヌンティウス。
太宰治がこの小説で書こうとしたのは、こちらの“ダラダラするメロス”のほうでしょう。そう考えると中学生の彼が今回の自由研究で気付いたことは、実はあまり驚くべきことでもありません。まさに小説の主題そのもの。正しくこの小説を読みとった結果です。
しかし、「全力じゃなかった」ことが驚きを持って受け止められたのは、「走れメロス」という小説が学校教育の中で、「信じる心の大切さ」という部分を強調され、ラストシーンばかりが印象に残るからでしょう。この小説を最後まで読むと、途中のダラダラしたメロス像は掻き消され、血を吐きながら全速力で走ったメロスの姿ばかりが頭に焼き付きます。そして、最後まで互いを信じたからこそ、2人とも命拾いし、王も改心した…そんな印象が残ります。メロスが途中怠けず、スタスタ歩いていれば、最後これほど頑張らなくてもよかったかもしれないということはほとんど言及されません。
途中怠けない。実はこの方が最後に血反吐を吐くことより難しいのかもしれません。普段からちゃんとやっていれば、途中で諦めそうになって友に懺悔することも、血反吐をはくまで頑張ることもないかもしれない。なのに、メロス=太宰にはそれができないのです。太宰は上記の借金の問題だけでなく、原稿を書くことについても、同様の悩みを抱えていたに違いありません。
実は私も今、急ぎでやらなければならない仕事があります。なのに、その手を留めて、こんなものを書いています。そちらを先にせねばならないのは分っているのに、なぜか、心はそちらに向かわない。そちらの仕事を始めても、キーを打つ指が一向に動かない・・・。そんな私にとって、メロスの一瞬のまどろみや、もうダメだ…というへたれな態度や、すぐに安心して小唄を歌いながらタラタラ歩く気持ちが手に取るようにわかります。
メロスが走らないのなんて当然なんです。メロスは尻に火がつかないと走らない。そのくせ感動屋で、理想家で、言うことだけは言う。それに似た太宰も理想家であるが故に、頭の中の理想が高くて筆が進まない、現実的にものごとを進められない…。夢見がちな人間に計画的に物事を行えるわけがないのです。人間失格です。
でも、そんなダメ人間だからこそ、最後の最後、間に合わなくなったのは“自分のせいだ”と自覚でき、その懺悔の心によって、あれだけ力を振り絞れたのかもしれませんね。それまでの自分にもし落ち度がなかったら、この手の人は、山賊や天候のせいにして、諦めてしまっていたかもしれませんから。もちろん、それまでの自分に落ち度がなかったら、あわてなくても到着していたのかもしれませんけどね。普段からきちんとしているに越したことはありません。
最後になりましたが、そんなダメ人間のメロスに対して、「走れよ」とだるく指摘する中学生の村田君の自由研究は、やはり核心を突いたいい研究なのだと思います。
そば屋の出前じゃないけれど、お腹が痛くなったり、電車が遅れたり、親が突然訪ねて来たりして、仕事はずるずる遅れます。一旦、始めれば、なんとか進み始めるのは経験で分っているのだけれど、その進み始めた先に、山賊が出て来ることも、濁流があることもまた分っている。だから一歩が踏み出せない。そんなとき、自分の背中を押してくれるのは、誰かに迷惑がかかるという思いと、天から聞こえる「走れよ」の声なんでしょう。
でも、たまには誰かに「走れ!」と言ってもらいたい時もあります。「君ならできる」といった感じですかね。
この年になっても、まだ甘えています。 仕事に戻ります。