橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

「文体」をつくるには体力が必要だ

2015-11-14 19:32:13 | こじらせ人生

ナンシー関亡き後、ぽつりぽつりと、彼女が築いたテレビ批評というエベレストに果敢に挑戦しようとしているチャレンジャーに出会う。

ナンシー関と比べられることも多い今をときめくマツコ・デラックスはテレビ批評という山には登らず、自らテレビの中に入って、丁々発止を繰り広げることで、ある意味、批評の場を築いた。

けれど、だれでもがあのポジションを築けるわけもなく、丁々発止の必要ない、パソコンの前の安全地帯からあれこれもの申している書き手がほとんどだ。

そんな彼らの批評コラムは、言い得て妙とか、いいおとしどころをみつけようとするあまり、論がからまわりし、自分の本心をどこかに置いてきてしまっているようでもある。本当にお前はそー思っているんかーと突っ込みたくなるときが結構ある。

無理しなくていいぞ、テレビごときで(ちょっとナンシーのまね)。大抵の人がナンシー関の文体に引きずられ、自分の心眼の奥のかすかな光を見失っている。

それだけナンシー関はすごいことをやっていたということだ。あれだけ言い得て妙なのに、実は作為などない本音の文章。私はそんなコラムを、ほかに見たことが無い。

何が違うんだろう。「文体」って何だろうと思う。ナンシー関の文章とその呪縛を脱せられていない文章を比べるたびに、語尾や語り口を工夫したって、独特な文体なんてものは手に入らないと感じる。そんな小手先の問題ではないのだろう。

何に注目するか、切り口は斬新かという前に、自分の心の中をどれだけ冷徹に見据えているか。想定内の落としどころで良しとしそうになる自分に、厳しく突っ込みを入れられるもう一人の自分がいる。その極限までに厳しい突っ込みの存在こそが、ナンシーの文体になっているんじゃなかろうか。

特徴の無いつまらない文章というのは、結局、そこまで突き詰めてないってことで、どっかで聞いたような、ありそうな結論で満足してるってことだ。結局、コピペの成分が含まれているってことである。そのコピペの成分をどこまで減らして研ぎすませるか…。文体がある書き手の文章は、自らの心眼をその奥の奥まで見据えて、究極の「私はこう思う」を抽出しているからこそ、独自の文体になっているんだろう。

そこまで研ぎすませるには、脳みそを究極まで回転させて文章を抽出せねばならない。

文体をつくるには体力が必要だ。

追記:あ~、まだ本当に言いたいことが書けてない。なのにブログだとアップしてしまう。それがダメなんだなあ・・・


この秋初めて、火鉢に炭火を入れました。

2015-11-14 16:34:13 | こじらせ人生

今日は冷たい雨。東京は15時の気温13℃。
初めて火鉢に炭火を入れてみました。なんか落ちつく~。
でも、換気はしっかり。サッシをすかしてますが、たまに冷たい空気が流れて来るのが、かえって気持ちがいいのです。スイカに塩をかけると甘さが増すようなもんで、温かいところに、ちょっと寒さが流れ込むと、温かさが際立つという感じ。

 

日本の家はいつのまにか冬を旨として作られた断熱材&密閉型になってしまったけれど、日本の気候を考えれば、徒然草にも書かれているように本来、「家の作りようは夏を旨とすべし」なはずで、夏の熱中症増加などをみるにつけ、もっと空気を通すことを考えた方が良いのではないかと思います。

火鉢が危険とみなされて消えて行ったのは、この「家の密閉」と、火の扱い自体を人々が忘れてしまったせいだろうと思います。もちろん、めんどくさいっていうのもあるけれど。まあ、現代の暮らしの中で、これがメインの熱源になることはもうないとは思うけど、娯楽としてもかなり楽しいですよ、これ。

因みに、ちょこっと見えてるのは、角度、高さ調節可能なパソコン台。座りっぱなしは身体に良くないということで、机の上に載せれば、立って作業もできる優れもの。畳の上では、正座に疲れたら、キャッチャーのように中腰になったりしつつ使ってます。この中腰、どうかと思っていたけど、いつのまにかふくらはぎに筋肉ついてる気も…。