ナンシー関亡き後、ぽつりぽつりと、彼女が築いたテレビ批評というエベレストに果敢に挑戦しようとしているチャレンジャーに出会う。
ナンシー関と比べられることも多い今をときめくマツコ・デラックスはテレビ批評という山には登らず、自らテレビの中に入って、丁々発止を繰り広げることで、ある意味、批評の場を築いた。
けれど、だれでもがあのポジションを築けるわけもなく、丁々発止の必要ない、パソコンの前の安全地帯からあれこれもの申している書き手がほとんどだ。
そんな彼らの批評コラムは、言い得て妙とか、いいおとしどころをみつけようとするあまり、論がからまわりし、自分の本心をどこかに置いてきてしまっているようでもある。本当にお前はそー思っているんかーと突っ込みたくなるときが結構ある。
無理しなくていいぞ、テレビごときで(ちょっとナンシーのまね)。大抵の人がナンシー関の文体に引きずられ、自分の心眼の奥のかすかな光を見失っている。
それだけナンシー関はすごいことをやっていたということだ。あれだけ言い得て妙なのに、実は作為などない本音の文章。私はそんなコラムを、ほかに見たことが無い。
何が違うんだろう。「文体」って何だろうと思う。ナンシー関の文章とその呪縛を脱せられていない文章を比べるたびに、語尾や語り口を工夫したって、独特な文体なんてものは手に入らないと感じる。そんな小手先の問題ではないのだろう。
何に注目するか、切り口は斬新かという前に、自分の心の中をどれだけ冷徹に見据えているか。想定内の落としどころで良しとしそうになる自分に、厳しく突っ込みを入れられるもう一人の自分がいる。その極限までに厳しい突っ込みの存在こそが、ナンシーの文体になっているんじゃなかろうか。
特徴の無いつまらない文章というのは、結局、そこまで突き詰めてないってことで、どっかで聞いたような、ありそうな結論で満足してるってことだ。結局、コピペの成分が含まれているってことである。そのコピペの成分をどこまで減らして研ぎすませるか…。文体がある書き手の文章は、自らの心眼をその奥の奥まで見据えて、究極の「私はこう思う」を抽出しているからこそ、独自の文体になっているんだろう。
そこまで研ぎすませるには、脳みそを究極まで回転させて文章を抽出せねばならない。
文体をつくるには体力が必要だ。
追記:あ~、まだ本当に言いたいことが書けてない。なのにブログだとアップしてしまう。それがダメなんだなあ・・・