「橋本治の立ち止まり方」という本を買う。あいかわらず示唆にとみ、方法としても参考になります。また、先日聞いたネットラジオ、ラジオデイズの内田樹&平川克美対談「ぼくらのヨシモトタカアキ」と「村上春樹ノーベル賞受賞記念対談(予定)」もとても面白かった。最近、日本人とは日本とは何かを考えることが多いのですが、そのとっかかりとなるような話が満載。同時に読んでいる「建築における「日本的なるもの」」(磯崎新)にも気づかされる所多く、日本の歴史を学ばねばという熱は上がる一方。まあ、体系的に学ばずとも、こうして断片的なるものが繋がって行けば良いのか。にしても、これまで歴史を知らなさ過ぎたわけです(恥)。
「ぼくらのヨシモトタカアキ」では、戦中派の特殊性を語っていました。軍国少年として多感な時期を過ごし、終戦で、すべて嘘でしたと言われた世代。人は自分の根拠となる思想の正当性を見いだしたいものですが、彼らは、封建的だった自分の子供時代になんらかの正当性を見いだそうとする人たち。そんな彼らは、封建時代の思想などまるでなかったかのように捨て去り、かつ簡単に保守に転向してしまった左翼の脆弱さを責めるのです。戦後左翼の問題点は、長い歴史の中で培われた目に見えない日本人の心性、たとえば、天皇制との関係などまったく分析もしないでスルーしてきたあたりにあるのでは…というような点。天皇制の是非は別にして、歴史的に天皇っていったい何だったんだろう…ということは、このところ私も気になっていたことで、大河ドラマ平清盛における帝や法皇を見るにつけ、被災地に行かれる今上天皇の姿を見るにつけ、保守って何?革新って何?日本人って何?という疑問が頭をもたげているわけです。
「橋本治の立ち止まり方」でも、天皇制について言及しています。もちろんそれがいいとか悪いとかの話ではなく、象徴となられてからの天皇は、まさに象徴たらんと、象徴とはいかなるものであろうかと常に考え抜かれていて、その姿勢が今の天皇皇后の美しさに繋がっていると書いています。引用ーー「天皇としてあること、皇后としてあること」は「人としての孤独」につながるものであり、だからこそこの二人の間に存在する紐帯は、比類ないほど美しい。ーー引用ここまで。橋本治は、これまであまり興味を持ってこなかった今上の天皇皇后の姿を、ふとテレビで見て、日本で最も美しい夫婦像だと驚くのです。これまで興味を持ってこなかったとはいっても、橋本治の場合は、「院政の日本人」という本まで出していて、過去の天皇制についてはいろいろ考えているはずです。
やはり、私たちは明治維新以前の、つまり近代以前の日本人の歴史も、年号の記憶としてだけでなく、きちんと学ばねばならないなあと思います。戦後から現代のことは、ほとんど戦前との対比の中で語られますが、その戦前とは明治維新以降の戦前でしかありません。しかし、日本人の心性はそのずっとずっと昔から形成されてきている。
かつては中国、開国後は欧米の文化を取り入れ、和様化することが日本の特性であるならば、日本的なるものとは何なのか?だとすると、昨今のカタカナ語の反乱も和様化の一過程なのか・・・?
日本がうまくやっていける道筋は、どういう方向なのでしょう。
今はちゃんと「立ち止まって」そういうことを考えるべき時なんだと思います。
ところで、内田樹&平川克美氏の「ぼくらのヨシモトタカアキ」で、もうひとつ面白かったのは、日本の知識人の正統な系譜は、外来の難しい知識を平易な日常の言葉にして伝えることであると言ってたことでした。
漢文の時代に仮名文字で文章を書いた紀貫之とかそうなんでしょうね。漱石の「吾輩は猫である」は、西洋思想の啓蒙書であると内田氏が指摘していました。登場人物の会話の中に、先端の西洋思想が織り込まれ、小説を読んだ人はそれをいつのまにか理解できているそうです(私、「吾が輩は猫」は読んでないのです)。
そして、吉本隆明がその流れの一人であるという話。
私がずーっと読み続けてきた橋本治という人は(平家や源氏は読んでないんですが、これから読まねばと…)、外来思想の翻訳はやらないけれど、さまざまなもやもやを日本人なら誰でもわかる言葉で書くことに徹しているという点では、正統派知識人ではないかと思うのですが、世間ではあまりそうは思われてない気がします。というか、知らない人が多すぎる。こんなにもっともなことしか言ってないのになあ。
自分が理解できてるからといって、難しい言葉をそのまま使ったら、それをまだ理解していない人には伝わらない。なのに、専門家と言われる人の文章にはわからない言葉が多すぎる。せっかくの研究成果もそれでは一般に広まらないです。
平易な言葉に翻訳できない人は安易にコピー&ペーストする。ネットの普及もあって、そんなことも横行して知性の劣化も危ぶまれる。分からないことをありがたがる風潮をやめ、分からないことを分かろうとする姿勢、難しいことを広く伝えようとする姿勢を復活させねば、日本ってやばいんじゃね?と思います。
難しいことを易しく、易しいことの中に本質を見つける。そんな基本が忘れられている気がします。
今って、正統派知識人っているのかなあ…。
なんか、まとまりませんが、このところこんなことを考えながら日々過ごしております。