中野笑理子のブログ

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ちいさなしあわせ

2017年07月11日 | 日記

梅雨の中の病院通いの帰り道、コケモモの実を拾いました。
鳥たちがいつも美味しそうに食べていて、どんな味がするのか、ずっと気になっていました。
持って帰ってきれいに洗ってパクリ。
少しクセのある甘さが美味しゅうございました。



調べてみると、お肌にも良いそうです。
早起きして採りに行こうと思っているうちに、季節は終わって今はおびただしい数の種が散らばっているばかり。

本が助けてくれた

2017年07月10日 | 日記

時に認知症の母がまともに思えるほどの、夫の変わりように激しく動揺しました。
けれども母と話していても、健全だった時のように悩みや不安は口にできませんでした。
ごく近しい人にだけ本当のことを話しましたが、話して楽になるわけでなし、仕事中も頭のてっぺんはどーんと痛く、いつまで続くのか、また自分がどこまでもちこたえられるのかもわからなかった。

とにかく本を読みました。
ちょっとでも心が強くなれるような、ささやかな幸せを感じられるような、唯一の現実逃避でした。
病院のある駅は大きな本屋があり、毎日寄っては買って読みました。

益田ミリさんのマンガやエッセイ、小説。
にしむら珈琲創始者である川瀬喜代子さんの物語『神戸っ子の応接間』
朝井まかてさんの『ちゃんちゃら』『花競べ 向嶋なずな屋繁盛記』『すかたん』
伊集院静さんの『作家の遊び方』
桐野夏生さんの『だから荒野』
文藝春秋スペシャル『脳と心の正体』等々。

もちろん中山先生の新刊も、発売日に買って読みましたが、独りっきりの家の中で読むのが怖くて、遅くまで開いている喫茶店で粘って最後まで読みました。
読んでやっぱり、家の中で一人で読むのは危険だと思いました。

『幽』vol27も貪るように読みました。
花房観音さんの『但馬忍法帖』のラストは何度読んでもほろりとしてしまいました。
チーズの肉トロ、いつか作って食べてみたい。
山田風太郎さんの本は今、書店では見つけることが困難なのです。
でも図書館に行く時間がないので、この特集は嬉しかった。

そうこうするうちに、夫の状態も薄紙を剥ぐように本当に少しずつですが回復し始めました。
テレビを見るようになり、行く度にテレビカードを買う羽目になるので、小さなラジオを買って、野球中継はラジオで! と釘を差しました。
次第に幻覚や幻聴もしなくなりましたが、元気だった時のような普通の会話はまだ難しく、時系列でものを考えたりするのはつらそうでした。

リハビリ専門の病院へ転院することが決まり、転院する数日前から「時代ものの本が読みたい」と言い出したので、どうかな? と思いながら朝井まかてさんの本と複数作家のオムニバス時代ものを持って行きました。
時代ものといっても今まで戦記ものが好きで人情ものはあまり読まない人だったのですが、ちゃんと読んでいたようです。
これは嬉しかった。

そして近所の大学(自転車で5分)で桐野夏生さんの講演会があり、申し込んで聴きに行きました(しかも無料だった!)。
桐野さんはとても綺麗で声がハスキーでカッコ良くて、自分の小説について、自分の小説を評された時の忘れられない出来事についてなどを話して下さいました。
速記記者のように一番前でメモをとりました。
目は桐野さんに釘付け状態でとったので、ぐちゃぐちゃなメモになってしまいましたが、今も時々読み返しています。

やっぱり本は良いな。



夫の笑顔を見て泣く

2017年07月09日 | 日記

夫の状態は1週間経っても変わらず、まともな会話は出来ませんでした。
病院からは、出来るだけ顔を出して話しかけてあげて下さい、と言われたので毎日会社帰りに病院へ寄るようにしました。
母の介護もあるので面会終了時間の午後8時までいれない時もありましたが、出来る限り一緒にいるようにしました。

会社を出て病院へ寄り、会話にならない会話をして洗濯物を持って帰り、そのまま実家に行って母の介護を済ませて帰宅する。
帰宅してすぐ洗濯機を回している間に入浴し、翌日は病院へ持って行く着替えなどを持って7時前に家を出るという毎日でした。
家に帰っても食欲は湧かず、横になっても眠れず、これからのことを考えると暗澹たる気持ちになりました。

去年入院した時は意識はちゃんとしていたので、主人の経営する店の支払いやパートさんの給料支払いなどの雑事も言付かってすすめられましたが、店の事を訊いても何もわからない状態。
会社の昼休みに店へ行き、請求書や取引先の確認をして連絡し、支払いや仕入れの取り消しなどを行い、パートさんの出勤カレンダーを探して給料を計算し、連絡して振込先を教えてもらい(いつもは手渡しでした)、教えてもらえない人には直接手渡しに出向きました。
この頃、常に頭のてっぺんの真ん中辺りに痺れたような鈍痛があり、ただただ目の前に積まれた石を崩して行くような毎日でした。

そんな毎日の中で、常に明るく話しかけてくれたのが、病院の看護師さんたちでした。
去年の入院で母の介護のことも覚えてくれていて、大変だけど無理しないように、少しでも楽をして下さいね、と気遣って下さった事がとても有り難かった。

肝臓の数値も高かったので、幻覚や幻聴はアルコール依存症の離脱症状ではないかとも言われたのですが、数人の看護師さんたちが去年入院していた時と全然違うと証言して下さり、早期の退院を促されることもなく詳しい検査を受ける事ができ、やはり血腫と脳についた傷が原因であると判明しました。
やはり転院して正解だった、と思いました。

しかし夫は幻聴幻覚は少しずつ減ったものの、記憶障害、意識障害、運動障害が残っており、トイレに行くにも車椅子、病院に入院しているという認識も時に忘れるようでした。
4人部屋でしたが、カーテンで仕切ってあるため個室の店と勘違いしたのか、食事をしているとき「こういうとこもたまにはエエな」と呑気に言いながら、私の食事が出てこないので「(持ってくるように)言うたるわ」と言ったりしました。
日曜日ちょうど母がショートステイで面会終了時間まで病院にいることができた日、夕食に高野豆腐の卵とじが出たのですが、食べながら自分の齧った後の歯形の残った豆腐の形を見て楽しそうに「亀の親子」「猿が蚤取りしてるところ」「俺の横顔」などと子供のように言うので、思わず涙が出てしまいました。
そんな私を見て「何を泣いてるねん」と屈託のない笑顔で言うので、余計に泣けてしまいました。

先生からも看護師さんからも、薄紙を剥ぐように良くなっていくと思うので、時間はかかるけれど頑張りましょうと言われ、前向きに考えるように心がけてはいましたが、夫と対面するとその決意もむなしく脱力してしまう毎日でした。


闇の始まり

2017年07月08日 | 日記

病室へ駆けつけると、ベッドがあった場所は何もありませんでした。
えっ? と思って入り口の名札を見ると、夫の名前がない。
慌てて詰所へ行って尋ねると、詰所のすぐ隣の病室に移動しており、拘束具をつけられて唸っている夫がいました。

夜中から急におかしくなり、訳のわからないことを言いながら病院の中を徘徊し始めたのですが、まともに歩くことが出来ず、転倒すると危険なのでやむを得ず拘束しています、という説明でした。
昨夜8時過ぎまで普通に会話出来ていた夫は、虚ろな目をして必死に拘束具を外そうとしていました。
私に気づいても何も言わず、またすぐに苛ついた様子で拘束具を外そうとする。

奥さんがいる間は外しますが、トイレには付き添ってあげて下さい。
帰る前には、必ず呼んで下さい(拘束具をつけるので)。
と言われ、拘束具を外してもらいましたが、またすぐにベッドにつけられている拘束具自体を外そうとする夫。

それは取れへんよ、と言っても「取らなアカンねん」と言ってずっとそればかりをしている。
首からは御守り袋をペンダントのように下げています。
それはベッドから離れたら、すぐに詰所に知らせる為のセンサーでした。

話しかけても、会話にならない。
ここが病院であること、病院に入院していることが、理解できていません。
自分の名前も私の名前も言えない。
あらぬ方を睨み、女の人が立ってこっちを睨んでいる、などと言って怒っています。
そうかと思うと備え付けの戸棚の方を見て微笑みながら、「見てみ、2匹ともおんなじ顔してるわ」などと言います。

ゾッとしました。


それはある朝突然に

2017年07月07日 | 日記
金曜日の朝8時前、会社の更衣室で制服に着替えていると携帯が鳴りました。
主人からでした。
出るとまったく知らない人の声で、今、救急車でご主人を搬送しているのですぐに病院へ来て欲しいと言われ搬送先の病院名を告げられました。
とりあえず制服のまま、上司に事情を話して駆けつけました。

救急の待合室で2時間ほど待って、ようやく処置室に呼ばれましたが、頭を打って出血しており今検査をしていること、検査結果にもよるが今日はこちらで措置入院となるので後で入院手続きをしてください、という担当女医の5分ほどの簡単な説明で、また待合室で待つように言われました。
救急外来はとにかく待たされるということがわかっていたので、財布や手帳と一緒に朝刊と文庫本を持ってきていて待つこと自体は苦になりませんでしたが、やはり主人の状態が気になって落ち着きませんでした。

その後1時間ほどして部屋に呼ばれ、主人の最近の体調等を訊かれました。
先の処置室で説明してくれた女医とは別の男性医師でしたが、こちらの顔も見ずパソコンのモニターに向き合ってキーボードを忙しなく叩きながらの問診で、非常にぞんざいな物言い。
しかし、この男性医師との出会いが不幸中の幸いだったのです。

日頃の飲酒量を訊かれて、缶ビール……と言いかけたら「350? 500?」と半ば怒鳴り声で畳みかけるように訊いてきたので、質問に答える気を無くし「恐れ入りますが先生のお名前を教えていただけますか」と言いました。
名札はつけているけれど、こちらからは見えない位置につけていたのです。
男性医師は一瞬えっ? と固まりましたが、名札をこちらに向けて名乗り、私はそのフルネームを手帳に記入しました。
その瞬間から男性医師の態度は急変し、こちらに向き直り敬語を使って話しかけて来ましたが、私は先ほどこちらで措置入院をするように言われ承諾したが撤回する、処置が終わった時点で連れて帰る、と言って部屋を出ました。
男性医師は「何かお気に触ったのなら謝ります、措置入院を取り止めるのは……」と慌てて追って来ましたが、今お話しした通りです、処置が終わったら呼んでいただきたい、とだけ答えて待合室の椅子に腰掛け本を開きました。

すぐに先の女医が飛んできて、措置入院の必要性を訴え、処置が終わっても自宅に帰せない、ここがダメであれば別の病院へ搬送する必要がある、と言いました。
待合室で待っている間、脳外科のある西宮市内の病院を検索していたら去年入院した病院が出ていたので、その病院名を告げ、そちらに搬送してもらうようお願いしました。
受け入れてもらえるかどうかわかりませんでしたが、とにかくこんな病院に大事な夫の命を預けられるか! という一心でした。

幸いその去年入院した西宮市内の病院(おネエの看護士さんがいた病院)が受け入れを承諾してくれ、処置が終わった夫は救急車で搬送されることになりました。
運びこまれた病院を出たのが午後2時半過ぎで4時までに向こうの病院へ行くように言われたので、タクシーで会社へ戻り、西宮の病院へ私も後を追いました。

男性医師の態度もそうでしたが、実はこの病院ダメだ、と感じたのは待合室のトイレでした。
夫の勤務先から搬送されたその病院は、その地域ではおそらくいちばん大きな病院でした。
ホテルと見紛うほどの高層建築で、普通外来のあるロビーは吹き抜けがあり天井は高く、クラシック音楽が流れる非常に立派な病院でありましたが、救急外来は暗く汚く、トイレはおそらく掃除もきちんとしていないであろうと思われるほどでした。

同じ病院内でのこの差はなんなんだ。
そして入院の説明でひっかかったのが、大部屋を希望しても大部屋がいっぱいで個室しか空いていなかった場合、普通は個室料金は請求されないのですが(今までの病院はどこもそうだった)、ここは個室料金をいただきますということでした。
それもべらぼうに高い。
まあこれだけの外観の病院なので覚悟はしていたけれど、やはり腑に落ちない。
そう、腑に落ちないことが多すぎました。
救急措置担当の女医の見立ても、てんかんによる転倒で頭を打ったのではないかというもので、まったくの見当違いだと思われる言動が見受けられました。
もし万が一のことになっても、ここでは絶対にそうさせたくはない! と強く思いました。

西宮の病院で病室に落ち着いた夫は、意識も戻ったようで、普通に会話することが出来、主治医の先生もこのまま異常がなければ週明けにも退院できるでしょうとのことで、ホッと胸を撫で下ろし私は家に帰りました。

翌朝、病院へ行く前に夫にLINEをしましたが、返信がありません。既読にもならない。
イヤな予感がして急いで病院へ行くと、変わり果てた夫がいました。