昨年発刊された藤田師山下師の共著「アップデートする仏教」を読んだのが2月でした。
ちょうど3月に神奈川に行く用事もあって、鎌倉の一法庵におじゃましました。
普通40分も坐禅をしていると、足の痛さとの格闘で、早く時間が過ぎないかと考えてしまいます。
ところが、山下老師は言葉による導きで、1時間半も退屈には感じませんでした。
濃い時間が流れるというか、ピュアな時を刻むというのか、ゆったりだけれど、あっという間でした。
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曹洞宗の只管打坐は、とにかくタダ座ることが最尊とされています。
何かを目的としたり、何かのために座るのではない。
まして、悟りを求めたり、苦悩を減らすための目的としての
坐禅ではない!と教えられます。
最初の数分は呼吸に集中していますが、すぐにあらぬ事を考え始めます。
シンキングする自分を追いかけて、ぐるぐる回るようなものです。
心猿意馬とは、まさに言得て妙。
坐禅を何年やっても、皆こんな有り様です。-----------
一方庵でコトバの導きによる瞑想禅の後、
歩いてすぐの稲村ヶ崎の砂浜まで出かけ、今度は歩く瞑想です。
坐禅には経行(きんひん)と言って、坐禅が一区切りすると、引き続き歩く坐禅を行います。
一呼吸で右足半歩、また一呼吸で左足半歩とゆっくり歩みます。
ところが、これが形骸化して、何のために歩くのか、どのような思いで歩くのか、何に集中して歩くのか、
特に詳しく指導は受けません。ただ、一呼吸で半歩あゆむことだけです。----------
稲村ヶ崎の海岸を波の音を耳にしながら、砂地に足を取られながら、牛のように歩むと、
何か気付きのようなものが感じられます。
今でもあの時の時間と空間が、記憶に刻まれているように蘇ってきます。
話はちょっと横道にそれますが、--------------
修行時代、朝のお粥のタクアンをかじると、ボリボリ音がします。
すると、音を出して食べるな!と先輩古参から叱りつけられます。
恐る恐る奥歯ですりつぶすようにして、飲み込みます。
何と理不尽なことかと腹を立てても何ともなりません。理屈に合わぬことが修行なのですから・・
でも、マサチューセッツ大学のマインドフルネスセンターの所長ジョン・カバット・ジン博士は
患者に干しぶどうを与えて、ゆっくりとゆっくりと時間をかけて食べ、味わうという療法を施しているそうです。
そういえば、ご飯粒を2~3粒食べると甘く感じます。
ところが、卵かけごはんにしてズルズルすると、ご飯の味がわからなくなってしまいます。
タクアンもゆっくり噛んで、音を出すなと言うのは、実はマインドフルネスだったのだ!と今更ながら気付きました。
ですから、本当は禅の作法や習慣にはすべて意味があるのですが、形骸化してしまうのです。---------
話を戻しますが、
ゆっくり歩く修行、経行(きんひん)には本来、「この一歩この一呼吸に、時間・空間がすべてが包含されている」
ということに気づく「歩み」なのだということが、
稲村ヶ崎の海岸を歩いて、感じたことです。
本来は意味を持っていたものが、カタチばかりになる形骸化。
これによって、本来の面目が霧や雲に覆われてしまいます。
恐るべし形骸化です。
そこに目覚める・気づくということがマインドフルネスなのでしょうか。
本当のご飯の味、タクアンの味。呼吸と一体の自分自身などなど。
ありありと本来の味だったり、カタチだったり、意味がそこに形を表してきます。----------
歩くにしても、足の爪先から体重移動してバランスを取り、片方の足に体重を移す。
一歩を歩むことは、意外と大変な筋肉とのやりとりなのだと感じた次第です。
続く・・・