先月、書店で立ち読みをしていたら、おもしろそうな表題の本がありました。
とても参考になったので紹介します。
著者は精神科医の名越さん。
どうせ死ぬのに・・?と問われたら、何と答えたらいいでしょう?
著者は、答えは仏教の教えの中の行にある。実際の生活の中(実践)に本当のの悟りがあると言います。
「こう生きるといいよ」という指針が仏教の中にあり、2500年の風雪を耐えて今日まで伝わってきたのだと・・
精神科医から見た仏教の教えですから、説得力があります。
仏教は固定観念や先入観を取り払うことが大切です。
そして、客観的に物事を観るとはどういうことか、ということに緻密に理論化したものに
フッサールという人が創始した「現象学」があるそうです。
これまた早速本を取り寄せ、読んでみましたが、
デカルト、ハイデッカーが出てくる哲学本なので難解でした。
その本に書かれていることは、物には本質があるということ。
例えばここにりんごがある。この林檎は本物かどうか?と疑ってみる。
本物そっくりで、味もそっくり。でも人工的なりんごというのもあるので、何が本当かわからない。
このように疑えばきりがないが、疑うことを一旦カッコ括弧に入れ、別の場所に仮置きし、でも実際ここにリンゴがあることは事実として認識する。
これがフッサールの現象学の画期的な論証です。
これなら意味がわかります。
ここで、仏教と結びつけるなら、色即是空(すべての物事は実態・本質を持たない)
しかし、空即是色・・・。疑えばきりがない本質があるが、それを括弧に入れて(いったん認め)
でも現実は、「厳然とある」とする立場。このようなことなのかと、自分なりに理解しました。
現象学は物事の事実や本質を追求した学問ではなく、全ては心の現象として現れるとしています。
物事の実態・本質は人間の心というフィルターによって、人それぞれ違って見える(現象)ように
この世の全ては、現象世界であることを、深く追求した学問です。
フッサールは仏教をどれだけ知っていたかは、書いてありませんが、
西洋哲学の基礎を築いた現象学は、仏教の色即是空、空即是色と同じことを言っているような気がします。
さて話を戻して、精神科医が見た生きるヒント。そして、生きるための命題でもある「どうせ死ぬのに・・・」の答えは仏教の中にあります。
是非購入し、読んでみては如何でしょうか?
そんな時間がない、という方は本の内容のエッセンスを以下写し書きしましたので、御覧ください。
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深く悩み続けている人や長く辛い思いをしてきて、何とかそこから逃れたいと思っている人ほど仏教の学びは進みやすい、煩悩即菩提
貪瞋痴の三毒怒りを静める瞋不安や妬みも瞋である
不安というのは一見現実に根を張っているように見えてその根っこは心の中の未来予測に向かって伸びている
自分が勝手に予測し作り上げた悪い未来に対する怒り、どうして自分がひどい目に合うんだという怒りが不安の奥に潜んでいることが多い
怒りと言うのはそれ自体が心にダメージを与えるものだという事です
自分の怒りを観察すること気づくことによってその怒りの8割は消え去っている
心のバランスを崩して感情に支配されそうになったとき、瞬間的に心の状態を整える頓服薬としての行。深くに3回深呼吸をする(ちょっと気分が落ち着き気持ちが切り替わる。深呼吸が行としての機能をした
私は怒っていますと3回唱えること不思議なくらいいたりの感情は消えてしまう。
人間とは俺とか私と言う感覚(自意識に縛られた1ものである。自意識を持っていない動物たちは常に今ここだけを生きています
生まれたばかりの赤ちゃんは大人が持っているような自意識は無い。しかし4~5歳になるとかなり明確な自分という意識が芽生えてくる。
自意識思ったからこそ、将来の不安に備えて備えを作り、外敵から身を守る工夫を重ねるようになった。我々は自意識を持つが故に人間であるけれども、一方で自意識を持つことに息苦しさを覚えている。
自意識が不安と後悔を作る。
人間の自意識が今ここだけでなく、過去や未来、あるいは無限の空間に向けて、どこまでも広がっていくものだから
その結果人間の欲求は今ココではとどまらず、過去や未来につながってしまう。
人間は過去を振り返るをとする。それは僕ら人間が過去の自分もまた、今の自分と同じ自分と捉えているからです。
だから僕らは過去の自分を納得させようと、色々と物思いにふけってしまうのです。これを後悔といいます
不安も後悔も図式がある限り消える事はありません。自意識は過去の自分今の自分未来の自分をひとまとめにする力を持っています。この自意識の力によって人間は不安や後悔にとらわれるようになってしまった
明日は?来月は?来年は?とずっと先の人生を心配して不安に陥ってしまう。これは人間が自意識を持っているがために未来の自分と今の自分を同じ自分として認識してしまうからこそ起きる心の働きです。
今の自分が満足しても未来の自分が不満を覚えてしまう可能性がある限り人間は決して心から安心することはできません。
行にはコントロールの難しい自意識を小さくする効果があります。行やることによって心が軽く
、明るく、爽やかになるのは、自意識が小さくなった結果です。
ではなぜ行をやると自意識が小さくなるかと言うとその秘密は対象の同調にある
対象との同調によって自意識の枠組みが溶け出してくる。
スポーツで心を静かにしよう落ち着かせようと考えても自分の心を落ち着かせることがなかなかうまくいかない。なぜなら心を落ち着かせようと考える時意識が心を乱してしまうから。
とても有効な方法として、超スローモーションがあります。ゆっくりと自分の体を同調することによって心がとても落ち着きます。
また例えばコーヒーの味はどんな味か温度香そのような意識状態を解像度を上げてみる。これも1つの行である。
人生を縛る因縁を断ち切る
因とは自分の中にある原因 縁とは自分の外側にある原因。両者を合わせて因縁と呼ぶ。因縁とは癖や習慣と捉えることができる。人の振り見て我が振り直すのように、自分がとらわれている癖や習慣に気づく事は僕らが自意識の制約から逃れ出る大きな1歩である。
行で因縁を断ち切る
行はなぜやるかを理解せずに、ただやるということが大切。その人がこれまでの人生の中で無意識に培ってきた癖や習慣をリセットすることができる。未来愛の不安を消すことにもつながります。不安というのは過去の因縁によって作られたものだから。行に継続的に 取り組めば人間の過去や未来を強く縛る因縁を断ち切ることができる。何年も何十年もの間に形作られてきた人生の大きな流れすら変える力を、行は秘めている。
貪瞋痴の三毒 痴とは無智のこと。
仏教の考える無智とは道理すなわち仏教の法を知らないということ。法とはなにかと言うと、無常のこと。この6畳を知らずに自分の持つ固定観念に囚われてしまうことを仏教では無智と考える。
無常とは変わり続ける流れの中の一つのの局面に過ぎない
無常ををどれだけ深く理解しているかで、怒りが持続するかどうかは大きく左右される。
喧嘩をした時今ココの怒りだけで済めば大した事は無いが、ついつい昔から過去の出来事ことを頭でを結びつけて悲観的な未来予測をすることで怒りを継続させてしまう。
この場合怒りと言う火花が、無智と言う燃料に火をつけてしまうことによって、大火事になってしまう。無智と言うガソリンに点火し
固定観念に囚われるということ自体が無知の表れだと考えることができる。これは無常を知らないという事でもある。
人を見下し、軽蔑し、上から目線の怒りにとらわれている人に限って、自分が固定観念に縛られていることに気づかなくなる
仏教は徹底して固定観念や先入観を覆うとします。当たり前の前提を揺り動かすことこそ、仏教の思想としての真髄がある。ただコペルニクス的転換のように物事を相対的に見ること
そもそも母物事本質の本を相対的に見るとはどういうことなのか、西洋哲学に大きな転換をもたらした思想家フッサールが現象学を創始した。
現象学とは何か、乱暴にまとめるならば(物事を正しく見るにはどうすればいいか)を考えつめたた学問
私たちが視覚聴覚触覚などで体験できるものは生の現象ではないとフッサールは気づいた。この辺は仏教の空、無常の考えに通じるものがある。フッサールは現実かどうかという事はひとまず(に入れて、現実らしき物を現象と呼ぶことにした。
確かに現象と言うのは(私んが変わることで現象も変わる)僕らの認識次第でいかようにも変わる性質を持っている。しかし受け取り方というのは実は自分ではほとんどコントロールできないもの。
行によってその(認識のコントロール)という領域に踏み込んだ方法論なのです。
現象学が提示する(現象は認識によって左右される」という知見は仏教心理学にも通じるものがある
仏教と言うのは「現象学的な物の見方」を自分の体に受け止め、それを実践していくための方法論というとらえ方ができると思うのです。
行や瞑想によって心を落ち着かせると言う事は自分が何何かの固定観念を通して世界を認識していることを知り、そこから自由になって物事を認識しなおすということです。