脳出血で無職になった親父のブログ

株式投資に腕時計が好きなオッサンのブログです。年齢を重ねスピリチュアルにも興味を持ったお蔭で人生感も変わりました。

リストラに!

2015年12月24日 10時51分00秒 | わが半生
昭和58年に消費者金融会社に入社して業界の急成長の波に乗れたおかげて26歳で支店長になれました。その後、何度か冬の時代を業界自体が迎え中には倒産した消費者金融会社も数社あったなかで会社は危機を乗り越えつつも社員をリストラすることほありませんでした。時代は店頭窓口から無人店舗を展開するころ私は38歳でエリアマネージャーに昇進し北海道南部、函館、苫小牧、室蘭、小樽、道央の岩見沢の各支店を統括することに。この頃、外資へ会社は営業権を譲渡したのです。当時の新聞の一面を飾りました。外資の効率化は凄まじいばかりでなく、その合理主義と日本的な組織風土とは全く180度の違いから多くの社員が会社を去って行ったのです。外資になり大きな渦が一旦は治りを見せた、その後、私は異動となり兵庫県三宮を中心に数店舗を統括。このへんで組織は落ち着いたのかな?と思いき組織は更に再編され、それまであった支社が消滅。エリアの統括範囲が広がり私は北陸、京都、大阪の一部と兵庫を担当となったのです。支店窓口は統廃合がすすみ塚口、伊丹、西宮、元町など無人化となりました。北陸も支店窓口は富山駅前、金沢駅前、福井駅前の3店舗。平成初頭は七尾や小松、高岡など北陸にも支店窓口はあったのです。営業部門と回収部門が、それぞれ分担化され回収の初期遅れへの督促はオペレーターが集中センターで、ひたすら電話。無人機の対応も集中センターで操作し時間と人的合理化が一挙に進んだのです。ここまでならまだ、大丈夫でしたが、やはり最高裁判決後の利息制限法の上限を超える金利、過払い請求が業界を大きな涙で呑み込んで行ったのです。年々、増加する過払い返還の金額が会社の収益を圧迫。当然、そこは外資。更に支店窓口の無人化と人員整理を始めたのが平成18年、私の親しい同僚や、元上司なども会社を去って行きました。そして翌年、会社は更に大鉈を振りかざしてきたのです。私も、その、大鉈で身体を切られました。本社から呼び出しを受け面談に赴くと、もう、貴方には後はないという表現でしかなく就職支援会社を紹介され退職金を貰い会社を去りました。47歳のときです。それまでの人生、勿論、数多くの挫折を味わいましたが、この時ばかりは最悪の挫折感であったのは言うまでもありません。まだ中学生と小学生の娘たちにも、お父さんは会社を辞めると言ったときは大泣きされました。妻は唇を噛み締め『大丈夫、私、支えていくから!』と言いながらも目には涙が浮かんでいたのは今でも覚えています。私は家族を守るため就職支援会社へ通いハローワークにも通いました。幸いにも退職後、2ヶ月で就職先が決まったのですが、出直しとは本当に辛く何よりも自分自身との闘いでした。
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