脳出血で無職になった親父のブログ

株式投資に腕時計が好きなオッサンのブログです。年齢を重ねスピリチュアルにも興味を持ったお蔭で人生感も変わりました。

脳出血で倒れた、オッサンの入院日記☆

2014年04月23日 13時45分56秒 | 入院日記
さてさて(^^ゞ入院して1週間から2週間は、とても長く手足も動かず起きることもできません・・電動ベッドで背もたれを上げて起きるのが、やっと。当然ですが『オシッコ』は尿の管で勝手に袋へとたまりますが『ウンチ』は紙オムツとなります((+_+))54歳でオムツは、かなりの抵抗でしたが仕方ありません・・それと2~3日に一度、下半身を洗いに看護師が来るのですが、それが結構、恥ずかしい(●^o^●)のです・・担当看護師と、もう1人、年齢も若く結構かわいい女性でした・・『○○さ~ん♪おシモ洗いましょうか♪』と明るく道具を持って手際よく脱がされ、オムツも取られ大事なところが露わになったと思うとシャーッと容器からぬるま湯をかけられ石鹸で象さんの鼻周辺を手洗いされ恥ずかしさと気持ちよさが交互に波打ちました(^^)わずか5分くらいですが今、思うと良い経験?でした。急性期病棟は看護師も多くナースコールすればスグに来てくれます。皆さん優しくホンマ『白衣の天使』で20代から30前半の女性ばかり・・毎日のリハビリも都度『○○さ~ん、リハ行こっか!』と明るい声でベッドから車椅子に移動させてくれます。それが、またまた大変(@_@;)身長185の私に対したいていの看護師さんは、しんどうそう・・車椅子に乗ってリハビリ室へと連れていき、リハビリが終われば迎えに来てくれます。リハビリ以外は寝てるかラジオを聴いているか・・2人部屋なので、しかたなくラジオはイヤホンで聞いてるのですが、なんせチューブとコードだらけ・・イヤホンのコードがどこにあるのかベッドの上で探してもみつからず、挙句はラジオを床に落とす始末・・申し訳なさそうに看護師を呼んで拾ってもらうこともシバシバ。そんな、ある日、尿の管があるのに尿意をもよおし尿をだすと何とも言えない気持ち悪い痛みというか沁みわたる痛さを感じました・・尿の管を象さんの鼻の先につけらてから初めてのことでした。管をとおされてからは尿意もなく勝手にオシッコが袋へと流れていってたので(なんか気持ち悪いなぁ)と思うつつも、その時は何も看護師に言わず我慢したのですが、その日の夜・・また尿意をもよおしたので(ん?なんやろ?また尿意が・・ま、えっか)とオシッコを意識して出すとまた沁みわたる何ともいえない痛さ??熱湯が尿道を通る感じと言った方が近い表現です。『あ”---ッ痛い気持悪いッ』と思わず叫んでナースコールしたら看護師が、いつもの明るさで『どうしたん?○○さん♪』人が辛い気持ち悪さに苦しんでるというのに、何や?その明るさは・・と思いつつも『オシッコの管、取ってや~・・気持ち悪い痛さで、とにかく無理無理!!』と訴えるも『なんで?主治医の指示なしで取ること出来へん!』と冷静な返しが、かえって私の気持ちを逆なで・・『オシッコでると熱湯が沁みるような痛さがあるねん。我慢してるけど・・あ・・出た・・アカンっ!気持ち悪い・・早く、オシッコの管を取ってくれーーーーっ』そら大きな声で懇願しました((+_+))『でも・・』と看護師。『病人が頼んでるねん。ほん・・ま・・気持ち悪い痛さ・・沁みるから・・はよ・・はよ取ってくれーー頼むッ』本当に、この時は何ともいえない辛さもあって私の苦しがってる表情と、血圧があがって脳出血再発も困るからと、やっとこ看護師は管を取ってくれたのです。今でもこの時の痛さは忘れられません★管がとれた後は何とも晴れやかな心地となれ、気持ち良いオシッコが出来ることが、こんなに幸せなことかと感じた1日でした(^^ゞ 本日は、これにて・・脳疾患の入院生活は急性期の発症後1カ月回復期の5カ月が必要であることは、この時点で私はまだ知りませんでした、1~2カ月もすれば退院し復職できるものと軽く考えていたのです☆甘かった(--〆)
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脳出血で倒れたオッサンの独り言2

2014年04月22日 11時21分30秒 | 日記
さてさて(^^ゞ会社で倒れて近所の救急病院の集中治療室・・CTの結果、私の出血状態は右脳で直径3センチ未満の範囲であったので手術をせず脳の腫れをなくしていく点滴治療でした。いささか早めの意識回復でしたが集中治療室は24時間照明がついているので今は昼なのか夜なのか全くわかりませんでしたので看護師への質問は『今、何時?昼?夜?』で次いで多いのが『嫁さんに電話して!!』だったようです。右脳損傷のため言葉は、しっかりのようです。記憶にはありませんが妻曰く何度も病院から電話があって、その度に深夜でも車で妻は来てくれてたようですが病院に着くと大抵、私は爆睡状態だったと未だに言われます。
ICUでの出来事は全くと言っていいほど記憶にありませんが目が覚めれば体中のコードとチューブ、狭いベッド(私は身長185センチです)目を開けても物が何重にも映って見えて後遺症でトンボの目になったのか?と(@_@;)等、ストレスもピークでした。リハビリは救急搬送された翌日以降に理学療法士が来て私の手足を動かしていたと妻が言ってました
『今、動かさないと寝たきりになります。』と理学療法士は妻に言い、とにかく手足の関節動作にマッサージを懸命にしてくれたようです。この時の理学療法士が1カ月の間、私にスパルタであり優しくもあるリハビリをしてくれたのです。気が動転していた妻も理学療法士の懸命な姿を見て、あらためて大変な事になったと言ってました。
その後、1週間くらいと思いますがICUから2人部屋へ移動されましたが変わらず点滴3本に鼻から酸素、心電図みたいなコード数本、尿管は標準装備され寝返りも大変・・左腕をベッドの隅に忘れることは何度もありました。あまりに退屈さとストレスで妻にラジオを持ってきてもらいました。テレビ?無理無理・・TVはベッドの横にありますがリモコン操作もできませんしTVカードを挿入する事すらできないのです。主治医の脳外科医は女性で淡々と毎朝、様子を見にきてくれ『順調ですよ♪リハビリ頑張ってくださいね♪近くにMRI撮りますからね♪』と明るく言ってくれるのはいいのですが私は心の中で・・何が順調やねん(ー_ー)!! 左手足は変わらず鉛のように重たくて動かないどころか自分の手足の感覚が全然あらへんのが何が順調やねんと思ってましたが『そうですか良かった。』と返す自分が情けない・・のです。主治医が病室を出てから動かそうとして、あがくのですが( 一一)ピクリと動きません・・ある日、妻が『鏡見てみ。』と・・左目は閉じたままで左半分の顔が何かでプレスされたようになり垂れ下がってるではありませんか・・痺れもキツく歯医者で麻酔をされたような感覚が顔面左側全体にあって言葉も麻痺のせいか、ゆっくりしか話せません。ICUから脱出してから、やっとこ自分の体の状態が、わかり始めたのです・・妻と話すの身体を起こそうとしたのですが起こすことができへんのです。左手でマットレスに手をィ置いて足でふんばって起き上がろうとしましたが腹筋もできずおきあがれないのです(ん?手も足も俺のやんな?)手はダラリとしたまま・・妻は、そんな私を知ってか知らずか『お父さん、生きてて良かったぁ。一緒に頑張ろうね!』と励まされ思わず涙が自然と出たのを覚えてます。この涙は妻の励ましの嬉しさなのか・・それとも動かない手足のショックなのか未だにわかりません。まだ54歳やのに・・大学生と高校生の娘も居るし、まだまだ、リタイヤ出来へん・・。苦節半年の入院生活がスタートしました。
今日は、このへんで・・入院中、いろんな事がありました。恥ずかしい思い、将来への不安、再発の恐怖、人の優しさや温かさリハビリとの戦い・・それらを記憶をたどりながらツラツラ書いていこうと思ってます。
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脳出血で倒れてから・・・

2014年04月21日 13時17分43秒 | 日記
本日よりブログ始めました(^^ゞ54歳の『オッサン』です。昨年、脳出血で倒れ人生観の変化と人の温かさが身にしみ、いかに私自身が傲慢で我儘な性格であったかを深く反省しブログでキロクしていこうと思い始めた次第です。


昨年6月16日に仕事で取引先と電話で話してる途中、頭から血の気が引くような空を歩いているような???なんとも表現しがたい気分でした頭の中が、ふ~っと気持ちいいような悪いような・・そんな気分でしたが電話の途中であったことを思い出し何かを話そうとしましたが呂律が回りません・・(れれ??変だぞ?何コレ??やっとの思いで相手様に気分が悪いので一旦、切ります。と受話器を置きましたが多分、言葉にならない言葉で相手様には失礼だったと思います。受話器を置いてから身体全体から力が抜けてしまい、机の上に顔をのせて椅子から崩れるように地面に、しゃがみ込んでしまい近くに座っていた同僚と部下が身体を支えてくれましたが、私自身も立ち上がろうとしても力が入らず手を動かすことすらできないのです。この時、心の中で(俺・・死ぬのかな?まだ死にたくないな)と思いつつ片方の自分の心は死を覚悟しました。周囲で『救急車!!早く電話ッ!!』とか『ベルト緩めてッ動かしたらアカンッ』との周囲の声・・私は『大丈夫です』と言うつもりが声を出すこともできず、そのまま救急搬送され最寄の病院へ・・救急車内では救護隊のから名前や年齢など幾つか質問されながら『大丈夫ですか!?』の問いに小さな声で何とか『らい・・らいひょうふれす。』と答えた瞬間、『え?らいひょうふ?』『だ』の音が出ないのです。その時の心の動揺は半端ではありませんでした((+_+))救護隊の方から『病院に着きましたよ!!しっかり、してください』の後の記憶はありません。妻の話だと会社から連絡を受けて病院に着いたら管だらけで寝ている私を見て一体どうなったのか理解できなかったようです。会社の同僚・部下と総務課長がいて事情を聞き漸く事の次第が理解できたようです。
幸い翌日には眼が覚め意識を回復しましたが・・それからが大変でした。左手・足が鉛のように重く自分の手足という感覚が全くありません。寝返りをうつこともできず、眼を開ければ見えるのですが妻が3人?4人?に見え、まりで分身の術にかけられたようでした。私は背が高いので集中治療室のベッドが小さく、それもストレス・・寝返りできずストレス・・鼻に酸素チューブに下半身にも尿管チューブ・・点滴が3本、心電図のコードの血圧管理・・もうストレス200%・・『あ”---ッ』と叫ぶんですが看護師も慣れてるのか『あ、眼が覚めました?暫くは辛抱してくださいね♡』と言われただけであとは放置(-_-;)

とにかく私にとって驚愕の日でした・・今は自宅で療養していますが、病気の、おかげで学んだこと、人生観の変化など、このブログを通じ記録しながら同じような病気で苦しんでいる人、また健康な人も何かを感じとっていただければと思ってブログを始めました。
ツラツラと記述していきますが私の経験が皆様の励みになれば嬉しい限りです。では本日はこのへんにて失礼します。
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