なす日々

何かを成すつもりが、気がつけばこの歳に・・・でも、生きていれば何かは成している。

表現するという事

2024-01-29 07:09:00 | 雑感

漫画を描くことは、自分にとって何の意味があるのか?

 

30歳の時、一時期、曾野綾子の小説にハマった事があった。

私は乱読タイプだが、それまで、キリスト教を信心する作家さんを避けていた。

 

遠藤周作は、元々北杜夫を読んでいた関係で、

「狐狸庵先生」としてのイメージが強かった。

 

まともに読んだのは、高校時代、何故か社会科の夏休みの宿題に

遠藤周作のキリスト関係の本を読んで読書感想文を書く、という課題が出て

「キリストの誕生」を選んだのが最初。

 

その際に、総括として

「与えられ、帰依した者にしか分からない」といった

結局、キリスト教徒しかわかんねーよ、的な事を書いて出して

社会科教師にえらく褒められたのだが(それで良かったのか?)

分からない事を掘り下げても、と、それ以来避けるようになったのだ。

 

そんな食わず嫌いの私が「天井の青」にハマって、曾野綾子をひたすら読んだ。

三浦綾子も「氷点」を小説でしっかり読んだ。

(それまで、何度か映像化されていて知った気になっていた)

 

何冊か読んで思ったのは「同じ歌しか歌えない」という事だった。

そりゃ、絶対的なものがある人にとっては、そこに帰結するのは当たり前なのだが

やはり、揺らぎが無い物は、最終的に読者を置いて行ってしまう。

でも、素晴らしい作品があるのは確かなので、否定するつもりはさらさらない。

 

曾野綾子の「天井の青」は息子にも勧めたい作品だ。

 

私にとって、物語を紡ぐ原点は何かというと、

結局の所、存在意義の確認作業であると思う。

 

わざわざ何か表現せずとも、生活するだけで満足できる人は

その不安定さについて、考えない、考えないようにしている、

内に溜めている、もしくは不安定だと思っていないのだろう。

考えても答えは出ない、その不安定さへの恐怖、何故、己は在るのか。

 

その揺らぎを表現し、共感してくれる者がいる事で

命綱としているのかもしれない。

 

キリスト教作家は、帰依することによって、絶対的な恐怖から解放されている。

これは全ての宗教についても同様のことが言えるのではないか。

だからこそ、行動に迷いが無い。

本質を捉えていない場合は取り返しの付かない事にもなる。

まさに天国と地獄。

 

自分の作品は、自分だけが構築できる精神世界で

そこの「核」だけは、何人たりとも手出しされたくない。

それが侵されたら、筆を折る人もいるだろう。

 

自分も、キリスト教信者作品とどう違うのか?と問われると

根本は同じだと思う。

だが「揺らぎ」によって、作品は完全にはならず、毎回違う色を見せる。

 

でも、それだからこそ、今の自分の作品にかける情熱は強い。

今しか描けないからだ。

 

熱く強い分、折れたときの反動は・・・

絶対的なものがないと、そこは弱いと思う。

 

生きていればこそ、活路は見いだせると思うけれど

生と死の狭間の瞬間を超えるとき・・・それは、やはり当人しか分からない。