与えると受けとる
が
表面上には与えると受けとるに見えても
実際には奪い合うことになってはいないか
たとえば、依存の関係を例にあげてみます。
もらう側は、欠乏感スタートなので、まだ足りない、もっとお願いと
変化することを拒み、そのままの状態を続けながらかまってちゃんになり続けます。
悩み、打ち明け、頼って、その心地よさに酔いしれて、これを成功体験として続けます。
たいていの場合は、過去に、子どものころなどに
親や周りに十分愛されていなかったと信じています。
この人はかまってくれる、わかってくれる、愛してくれると勘違いして
その人への想いが熱烈になる場合もあります。
甘えたり、頼ったりするかと思えば、すねてみたり、怒ったり、いじわるや仕返ししたりと
かまってくれるなら何でも知恵を働かせるという経験をつんでどんどん賢くなる人もいます。
一方、与える側は相手が変わるまでなんとか説得しようと必死になり
エネルギーを消耗して疲れ果てます。
相手が変わったことで、なんとか自分の価値を証明したいのです。
自分は正しいと信じられるようになりたいのです。
もしくは尽くしまくります。自分はさておき、すべてをささげても役に立ちたいと願うのです。
こちらも誰かの役に立つことで、自分は価値ある存在だと証明したい。
過去に、子どものころに
親や周りの人に十分愛されなかったと信じています。
いい子だったと言われて本音をいえない立場にあったのかもしれません。
この人は、相手が変わると、かまってちゃんに変身することもあります。
同じエネルギーなので、向きを変えるくらい簡単です。
一見、全く逆に見えてこの二つの立場の抱える問題は同じ。
表現が違うだけで、ベースの問題は同じなのです。
自分自身を、自分の価値を信じていない
ということ。
だから誰かに証明してもらわないと!と、いつまでもがんばり続けます。
無意識下で、お互いに利害関係が一致すると
この関係はどちらかが気づくまで続きます。
たいていは、与えるほうが疲れ果て、もうイヤだと離れていきます。
相手が悪かった、あの人は変だと、極度に嫌うかもしれません。
自分の持っている深い原因が本当にわかり、変える!と決めてそれに見合った行動をし
自分を信頼するという新しい決意がしっかりと根付くまでは、繰り返します。
そしてまた、依存中毒の自立できない人を増やし、その人のマイナス面を大きく拡大します。
どうしたら依存関係を脱し、身軽に楽になれるのか。
おそらく説得は効きません。
本人が決めない限り、人を変えるのはとてつもなく難しいし、その必要もありません。
自分が気づき、相手の表面的でない、真の幸せを願ってその場から脱して
誰かのためではない、自分自身の人生を生きればいいのです。
その後相手がどんな選択をしたとしても、信頼して手放す。
相手は自分の思うように望むように生きているのだから。
そこからの体験と学びがほしいのだから。
どちらも自分を包み込んでくれるとても大きな深い愛を必要だと思い込んでいます。
でも。
本当は、どちらもものすごい愛のエネルギーを持っていて、
その表現として、マイナスではあってもこんなエネルギッシュな表現方法をとります。
これだけのエネルギーがあるのだから別の表現に使えば、
とてつもない莫大なパワーとなって
自分自身はもちろん、周りの世界に愛を届けることができます。
この人たちの「愛」を表現したいエネルギーはめちゃめちゃパワフルです。
長年注目し続けて充電しただけあります。注目したものが増えるからね^^
どう向きを変え、表現したらいいのかわからない人は
モデルになる人を見つけて研究してみるのもいいと思います。
愛の人といえば
マザーテレサ、イエスキリスト、ブッダ、聖母マリア、ダライラマ、坂本龍馬・・・
いっぱいいますよね。
誰が好きですか?
誰の表現に惹かれますか?
それがあなたの本来持つ本質の光と強くつながっています。
たどっていけば、必ず行き着きます。
これが私のしたい表現だ。
喜びにあふれ、平和で、楽しすぎ。笑
これを完全に先に表現している人は本当はかなり少ないと思います。
だれでもみんな、多少なりともどこかで自分の価値を信じられなくて苦しんでいるよね。
わるいことではない。ただの表現だから。あたりまえって言えばあたりまえ。
そういう世界で代々教育を受けてきたんだし。
みんなお互いに支えあって生きているのだから。
一人では何の表現も楽しくないだろうから。
でも。
依存でない関係をすべてに保ち、常に奇跡的に幸せな表現をしている人は確実に存在します。
できるならそっちっかわにいきたいですよね。
きょーれつに楽しいもん。
自己信頼。うばわない。
結局ここにたどりつくわけだ。
が
表面上には与えると受けとるに見えても
実際には奪い合うことになってはいないか
たとえば、依存の関係を例にあげてみます。
もらう側は、欠乏感スタートなので、まだ足りない、もっとお願いと
変化することを拒み、そのままの状態を続けながらかまってちゃんになり続けます。
悩み、打ち明け、頼って、その心地よさに酔いしれて、これを成功体験として続けます。
たいていの場合は、過去に、子どものころなどに
親や周りに十分愛されていなかったと信じています。
この人はかまってくれる、わかってくれる、愛してくれると勘違いして
その人への想いが熱烈になる場合もあります。
甘えたり、頼ったりするかと思えば、すねてみたり、怒ったり、いじわるや仕返ししたりと
かまってくれるなら何でも知恵を働かせるという経験をつんでどんどん賢くなる人もいます。
一方、与える側は相手が変わるまでなんとか説得しようと必死になり
エネルギーを消耗して疲れ果てます。
相手が変わったことで、なんとか自分の価値を証明したいのです。
自分は正しいと信じられるようになりたいのです。
もしくは尽くしまくります。自分はさておき、すべてをささげても役に立ちたいと願うのです。
こちらも誰かの役に立つことで、自分は価値ある存在だと証明したい。
過去に、子どものころに
親や周りの人に十分愛されなかったと信じています。
いい子だったと言われて本音をいえない立場にあったのかもしれません。
この人は、相手が変わると、かまってちゃんに変身することもあります。
同じエネルギーなので、向きを変えるくらい簡単です。
一見、全く逆に見えてこの二つの立場の抱える問題は同じ。
表現が違うだけで、ベースの問題は同じなのです。
自分自身を、自分の価値を信じていない
ということ。
だから誰かに証明してもらわないと!と、いつまでもがんばり続けます。
無意識下で、お互いに利害関係が一致すると
この関係はどちらかが気づくまで続きます。
たいていは、与えるほうが疲れ果て、もうイヤだと離れていきます。
相手が悪かった、あの人は変だと、極度に嫌うかもしれません。
自分の持っている深い原因が本当にわかり、変える!と決めてそれに見合った行動をし
自分を信頼するという新しい決意がしっかりと根付くまでは、繰り返します。
そしてまた、依存中毒の自立できない人を増やし、その人のマイナス面を大きく拡大します。
どうしたら依存関係を脱し、身軽に楽になれるのか。
おそらく説得は効きません。
本人が決めない限り、人を変えるのはとてつもなく難しいし、その必要もありません。
自分が気づき、相手の表面的でない、真の幸せを願ってその場から脱して
誰かのためではない、自分自身の人生を生きればいいのです。
その後相手がどんな選択をしたとしても、信頼して手放す。
相手は自分の思うように望むように生きているのだから。
そこからの体験と学びがほしいのだから。
どちらも自分を包み込んでくれるとても大きな深い愛を必要だと思い込んでいます。
でも。
本当は、どちらもものすごい愛のエネルギーを持っていて、
その表現として、マイナスではあってもこんなエネルギッシュな表現方法をとります。
これだけのエネルギーがあるのだから別の表現に使えば、
とてつもない莫大なパワーとなって
自分自身はもちろん、周りの世界に愛を届けることができます。
この人たちの「愛」を表現したいエネルギーはめちゃめちゃパワフルです。
長年注目し続けて充電しただけあります。注目したものが増えるからね^^
どう向きを変え、表現したらいいのかわからない人は
モデルになる人を見つけて研究してみるのもいいと思います。
愛の人といえば
マザーテレサ、イエスキリスト、ブッダ、聖母マリア、ダライラマ、坂本龍馬・・・
いっぱいいますよね。
誰が好きですか?
誰の表現に惹かれますか?
それがあなたの本来持つ本質の光と強くつながっています。
たどっていけば、必ず行き着きます。
これが私のしたい表現だ。
喜びにあふれ、平和で、楽しすぎ。笑
これを完全に先に表現している人は本当はかなり少ないと思います。
だれでもみんな、多少なりともどこかで自分の価値を信じられなくて苦しんでいるよね。
わるいことではない。ただの表現だから。あたりまえって言えばあたりまえ。
そういう世界で代々教育を受けてきたんだし。
みんなお互いに支えあって生きているのだから。
一人では何の表現も楽しくないだろうから。
でも。
依存でない関係をすべてに保ち、常に奇跡的に幸せな表現をしている人は確実に存在します。
できるならそっちっかわにいきたいですよね。
きょーれつに楽しいもん。
自己信頼。うばわない。
結局ここにたどりつくわけだ。