-写真の部屋-

奥野和彦

雨の日雑記

2009-11-11 22:31:48 | 写真
091111
信号待ちをしている最中にいい具合に
朽ちかけている家屋があったので、車の窓から
1枚撮る。
「何でも壊れかけたようなものを撮ればいいんじゃ
ないのよ。もうちょっとテーマを絞るなり、
もっときちんと被写体とも向き合って…云々」と
助手席のカミさんに言われて、その通りだと思う。
わかっているさ、と思う。撮りながら、どうせ
使わないコマだというのもわかりきっている。
カミさんは、もちろん良かれと思ってのアドバイスである。
ひとつ、言い訳をすれば壊れたものを撮ってるんじゃ
なくて「撮りたいもの」を撮ってるんだけどね。
でも、自分でも先日来ボロッちいものと言っている。

が、これが、まさに決定的な縮図なのである。

オレは「撮りたいもの」を撮っている。
でも、人から見ればうら寂しい、古い物や情景を
選んで撮っているだけに見える。

うら寂しい事や物が好きなのかというと、そうではない。
きっと「古いとか新しいとか寂しいとか、
そういう物や事を撮ろうとしているのでは、ない。」

では何なのか、要はこれをはっきり表出させられれば
いいワケである。
ところが、ここまで来て、いつも言葉に詰まる。
言葉に置き換えられないけれど、何か漠然としては、ある
「感覚」で、それが何かを作ろうとしている自分の核なので
あるとも思っている。こうして静かに考えていると
だんだん解って来るのは「何か」を撮って見せようと
してるのではないということ。

こうすると(撮ると)「何が見えて来るのか」を解ろうと
知ろうとし続けているのだ。だから、被写体はきっかけに
すぎないので何かが表出してくるまで、100でも
1000でも気になったものは撮るだろう。
その事を的確に示せないから人はおろか、自分さえ
納得させる事が出来ない。

写真になる事で見えて来る、もう一つの世界 と
仮に言葉で言うとすればそんな感じか。
それも使い古された言葉であって、何かもうちょっと
違う言い方は出来ないのか、と思うけれど。


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