レンキン

外国の写真と
それとは関係ないぼそぼそ

長いトンネル(27)

2007年03月14日 | 昔の話
 K君と日ごろから仲良くしていた先輩のKさんは
駅から遠いOの家までせっせとK君を送っていった。
同僚のS君は時間があるとOの見舞いに行っていた。
事故が起こった時にはもうすでに会社を辞めていた人が
家に戻ったOの元に花を届けに行った。


お見舞いに行かない人が悪い、と言っているわけではないのは
分かってもらえると思う。
目に見える形で心配するのが最良だとは思わない。
むしろ目に見える形で心配してしまう人は
何か下心のある人か、
「都合の悪いことからうまく抜け出せない人」だと思う。
悪い意味ではなく、職場にいた大半の人は
都合の悪い事実からすっと目を逸らすことが出来た。
私はそれが出来なかったから
私に出来る事を続けていただけだ。
遠くからそっと心配できるならそうしたかったけど
私はどうしても目で確かめないと駄目だったのだ。
…Oの容態をK君に伝えるという
下心もあったから。
結果はまんまと都合の悪いことにはまり
事実がどれだけ辛くても
見守り続けなくては気がすまなくなってしまった。
お見舞いに何度行ったから偉い、
行かなかったから薄情、ではなく
遠まわしな愛情、見せかけの愛情、間接的な愛情、薄情を
私は事故を通して学ぶことが出来た。

長いトンネル(26)

2007年03月13日 | 昔の話
 当時はK君もOのお母さんも興奮していたし
何より私自身が大興奮していたので
二人が会った時の本当に詳しい状況ではないかもしれない。
だけどはっきり覚えている事があって
それは玄関先で佇み、謝罪を口にしたK君に
「そんな事はいいからまあ上がりなよ」と
Oが言ったということ。


それまでのOからしたら劇的な変化だ。
自分から何かを話し出すような事もなく
物事に何の興味ももたず
誰かの顔を見ることもなかったOが
K君を見た途端、以前のような口調で話しかけたのだ。
行き止まりだと思っていた道の果てに突き当たってみると
もっと先まで道が伸びていた、そんな感じだ。
病院での治療が終わっても
この先はこうして回復していけるのだと思えた。


停滞に吐く息が尽きかけていたOの家族にとっても
絶望の只中にあったK君にとっても
それは眩しすぎるほどの希望だった。



私はようやく大手を振って、皆で一緒に旅行へ行った時の写真や
K君とOを二人で写した写真などを見せる事が出来た。
当時私は写真を撮るのが好きだったので
そんな写真はいくらでも持っていた。
Oの家に行く前日は持って行く写真選びに始まり、
その写真にまつわるエピソードを思い浮かべながら
気合を入れて準備し、
K君を入れた同僚や先輩と一緒に
朝早くから張り切ってOの家の門を叩いた。



この時期に私は人の様々な側面を見る。
それは当時の特殊な状況が見せたものだった。
普段では絶対に見ることが出来ない
その「人として」の部分。

長いトンネル(25)

2007年03月12日 | 昔の話
 病院での治療を終えて自宅に戻ったOに
私は時々会いに行ったけど
Oの様子にほとんど変化は無かった。
相変わらず周囲のものに興味の無い様子で
一点を見つめるか、或いは視点を定めずに
うろうろさせたまま
かさぶたをいじったり顔の傷跡を触ったりしていた。
好きだった動物にも興味がなくなり
飼ったシーズーがじゃれつくと感慨なく手で払っていた。

見慣れた自宅やその周囲の風景などを見て
何か感じるものがあるかもしれない、という
淡い期待は立ち消える。
…K君の事を話したい。
何せ事故にあう前のOはK君の話ばかりしていたのだ。
Oは様々な記憶を失ったけど、その中の大きな部分を占めていた
K君の話題を出して、少しでも記憶を戻す手助けを出来ないのは辛い。
せめてもの抵抗としてK君の話以外、
どんな些細な思い出話もOに話した。
思い出話のほとんどにK君が絡んでいたし
それがきっかけになってK君の事を思い出してくれたらと
ありとあらゆる些細な出来事を話した。
傍目に見るとおちのない話を延々と続ける女である。
さぞかし変な光景だったろう。
だけどその些細な出来事をOが思い出した時には
俯いてかさぶたを触っているOの顔が上がり、遠くを見て笑う。
そしてほんの少しだけ私の顔を見てくれるのが嬉しかった。



射撃で手ごたえは感じるのに大きな爆弾は落とせない、
そんなじりじりした日が何週も続いた。
が、そこへ待ちに待った変化が訪れる。
K君がOに会うことを許してもらったのだ。
私はその場に立ち会った訳ではなく、
後からK君ならびにOのお母さんから事情を聞いた。
口下手なK君はうまく自分の気持ちを伝える事が出来ず、
ただただ家の前に佇んでいる事が多かった、と
のちにOのお母さんはぷりぷりしながら言った。
何や、はっきりせん子やね!と何度も怒ったという。
だけど毎日のように通いつめるK君の姿に
そのうち根負けし、仕方なく家に上げて
Oに会わせた。ところがである。



何を見ても何をしても反応しなかったOが
K君に会った途端、突然喋りだした。
自分の体調のことをぽつっと話し(ちょっと頭が痛い)、
K君の顔を見、K君の名前を口にして
随分前にしたゲームの話、買い物に行った話、
以前病院に付き添ってもらったときの話をした。
そして
今日は一体どうしたのかと聞いたのだ。

息継ぎ

2007年03月08日 | ぼそぼそ
ちょっと息苦しくなってきたので
息継ぎです。

えー、誕生日でした。
ちょっと贅沢しようとマッサージに行ったら
すごく…私と合わない技の持ち主で
肩をバンバンぶたれて今でも頭痛が治りません。
ハッピーバースデー私。早く寝ます。(メソメソ)

長いトンネル(24)

2007年03月08日 | 昔の話
 Oはその後何度も手術をした。
手術をするたびに命の危機から遠ざかるのは分かったけど
命の危機から遠ざかって、それから?
その日も何かの手術の日で、夕方には終わるからと
私は後輩のKちゃんと一緒に見舞いに行った。
そろそろ麻酔が覚めてる頃だと思いますよ、と
看護婦さんに言われて部屋に行くと
手術後の控え室にはO一人で
Oは完全に覚醒しており、側に下がっている点滴の袋を
足で蹴り落とそうとしていた。

どの部分を手術したかは知らないけど、
どこだってこんなに動き回ってはいけないはずだ。
ほとんど逆立ちのようになって
袋につま先を伸ばすOを慌てて宥め、
点滴を遠ざけようとしたらOは
「お水を下さい」と繰り返した。
私達の顔は見ずに、点滴の袋だけに狙いを定めながら
はっきりした口調でそう繰り返した。

その後も暴れ続けるOを看護婦さんに任せ
私達は逃げるように病院を出た。
帰りの電車の中では何も話せなかった。
ただ一言、元気そうだったね、と
初めて見舞いに行った時と同じ事を言った。



私はこんな結果を予想してはいなかった。
治るか治らないか、生きるか死ぬか。
奇跡が起きるか起きないか。
当時の私に理解できるのはその二つの道だけだった。
しかし本当の道はそう分かりやすく開けている訳ではない。
危険な場所にはそうと知らせる立て札が立っている訳でもないし
入っていけない場所はガードレールで守られている訳でもない。
そして人は誰も、悲しみから特別な力で
守られているわけではないのだ。



Oは三ヶ月入院して退院した。
完治という言葉が完全に治るという意味ではなく
治療が終わったという意味でも使う事を私は知った。