2007年11月28日のブログ記事一覧-カトカト日記 ~霊園・墓石の株式会社加登 公式ブログ~

因果応報。

仕事帰りにジムへと通う日々が続いています。

走って、泳いで、ヘロヘロになってジム併設の風呂に入る、
この瞬間の多幸感といったら、他に比較できるものを僕は知りません。

オーバーヒート気味の筋肉は湯船の中で弛緩し、つられて僕の意識もゆるゆるに弛む。
ふと我に返るとヨダレが垂れそうになってたりして、思わず周辺に目を遣る。

よし、誰にも見られなかったぞ。僕は世界一のラッキーガイだ。

必要以上にプラス思考になりつつ、サウナにも入る。アホみたいな量の汗を搾り出したのち、ほわほわと夢心地で風呂場を後にする。
ここでビール党幹部の僕としては喉を鳴らして思いっきりビールを流し込みたいところですが、車通勤なのでそいつは家までお預け。

濡れた身体を大人しく拭いて水気を吸ったタオルでも絞ろうかと思ったら、脱衣所にたったひとつしかない洗面台の前から動かない若者がひとり。
背後で順番待ちをしている僕の気配にも気付かない様子。

わざとらしく咳払いなんかしながら観察してみると、どうやら見てるんですね、鏡を。
鏡に映った自らの姿を。

それも、いろんな角度から。
「その角度、さっきも確認してたやん!」
などと心の中で突っ込みつつ、忍耐強く待つ気弱な男は、ひとり湯冷めの危機を迎えていた。

さっきはヨダレ、今度は鼻水? なんて考えてると無性にやる瀬なくなってきて、僕の狭い狭い心は否応なくこの若者バッシングへと邁進し始める。

外見ばかりいくら磨いたって、人の迷惑を顧みないようでは何の意味もないんだよ?
なんて偉そうに。


photo by Mihoko Ozaki

しかしまあ、こうして今冷静になって振り返ってみれば、気付かぬうちに他人に迷惑掛けてることって、結構ありますよね。
僕なんてこんなこと言いながら、他人に迷惑掛けたり不快にさせたり傷つけたりっていうのが人一倍多いときてる。そんな自分を棚に上げ、他人の傍若無人っぷりには腹を立ててしまう。
程度の差こそあれ、人ってそんなもんだと思うんです。

さて、仏教の基本的な概念に「縁起」というのがあります。
ごく大雑把に言うなら、すべてのものには原因がある、といったところでしょうか。この世で授かる幸も不幸もすべて(前世を含む)過去の行いに起因しているという考え方です。

般若心経に出てくる「色即是空」なんてのもこの「縁起」という概念の延長にあり、「事物が確固とした実体として独立して存在する」「事物には本質がある」と考えてきた西洋的概念とは逆に、たとえばダライ・ラマの言葉を借りれば「物事は相互に依存して存在する。すべては、存在するが、それは他の存在に依拠することで存在する。決して単独で、独立して存在したりはしない。(中略)独立して存在するものは存在しない、それがシューニャ(空)ということだ」。

何だかややこしいですが、人間に当てはめて考えるなら、要するに人は自分ひとりで生きてるんじゃなく、いろんなものに依存し、生かされているのだということ。仏教においてこれまた重要な慈悲の心というのも、そのような発想と密に繋がっているのです。

さらに先ほどの「縁起」の概念と絡めて考えれば、ジムの若者から受けた行為は、僕が過去において誰かに迷惑を掛けたのが今になって返ってきたのかもしれない。そう考えると腹も立たな・・・・・くはないですが、怒りが生み出すものって殆ど何にもないんですよね。


怒りという敵が
そうした苦しみを作り出す
誰であれ、一心に怒りを打ち砕く者は
今生と来世で幸福を得る

(シャーンティディーヴァ「入菩提行論」より)


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