化学系エンジニアの独り言

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避難民生活

2019-11-14 | 遺稿集
これは私の母の家族のお話です。以下文中の私は母の妹です。

夕方、平城駅で下車、行く宛もないまま駅の軒下で親子5人うずくまって一夜を過ごした。(待合室に入ることは許されなかった。)

38度線を超えて、南朝鮮へ逃避しようとするものは脱走者として捉えられ、銃殺またはソ連へ送られる。仕方なく北朝鮮から来た日本人は全員平壌に集結。いつの日か帰国命令が出るまで、ソ連軍に従う覚悟で集団生活を始めた。平壌の町には各地から、見知らぬ日本人が続々と集まり五万人にもなった。元日本人学校、寺、神社に5百人、千人と各地に分散して同じ境遇を助け合って帰国の日を待った。

男子は三ヶ月間、無料で毎日強制労働に駆り出された。その後、男子は一日7円、女子は5円と安い報酬で働いた。(朝鮮人は一日30円くらい)

江界を出るとき、一家族に千円の所持金を許されたが、度々の検査で取り上げられ、平壌での生活中に無一物になり、私と弟が着ていた毛皮のオーバーも、いつしか食料と引き換えになって着たきりスズメになった。

平壌での日本人は生きるためにみな、乞食の境遇に身を落とし、惨めな生活を送っていた。お金もなく、衣類も食料もなく、塩汁に野草を浮かせただけの食事だったり。栄養失調でやせ衰えた体だけが残った。その体さえも夜になるとソ連兵が軍靴のまま踏み込んできては、恐ろしさのため怯えている若い女性を引きずっていった。断髪して身を守った女性もいたが、どれだけの女性がたちの悪いソ連兵の餌食になったであろうか。

飢えと寒さ、零下30度にも気温が下がる中で発疹チフスやコレラなどの伝染病が流行して、弱いものから命を奪われていった。

毎朝、4人、5人とコモに包まれた死体が運ばれて異国の土となった。餓死する日本人も多く、凍った川辺に転がっている死体をその頃、6歳の私は日光浴をしているものと思いこんでいた。

そのうち、兄も弟も麻疹にかかり、弟は41度の熱のために食欲もなく苦しんでいたが、薬どころか、何一つ買ってあげることも出来ない。天命に任せる他に方法はなかった。その弟をおいては母働きに出かけた。母の報酬は5円、この5円でりんごを2個買って弟に食べさせたとき、「お母ちゃん、明日も買ってきて」と言われても財布にはお金がなかったという。幸いにも弟はなんとか回復した。

また、帰国命令が出たときには、その旅費も必要である。親子で仕事を探し必死で働いた。父は経験を買われて大工仕事に、母はソ連兵の衣類の選択の仕事、兄と一緒に私も弟も凍って突き刺すように吹き付ける平城駅前に立って、新聞売をして1銭、2銭と蓄えた。平壌の、このような生活の中で9ヶ月が過ぎた。

(続く)