化学系エンジニアの独り言

時の話題や記事の備忘録

38度線を超えて

2019-11-19 | 遺稿集
これは私の母の家族のお話です。以下文中の私は母の妹です。

昭和21年7月2日、待ち続けた帰国命令がソ連軍から出された。

平壌駅から晴れて汽車に乗せられて金鉱という駅で降ろされた。汽車はここまでである。

公民館のような場所へ移され数日過ごし、ここから皆、徒歩で38度線を越えなければならない。自力で誰も助けてはくれない。リュックの中身の衣類等、道中荷物になるものはここで捨てる人も多かった。弟を背負う母もリュックを捨てた。父、兄、私の三人は軽くなったリュックを背負って父に引かれて600人の団体に入って、午前4時ころ、夜明けとともに出発し歩き出した。ぞろぞろと疲れても、ひたすら歩き続けた。国境38度線に差し掛かったのは夕日の沈みかける頃で、そこには駐屯所があって、いかめしいソ連兵が銃を持って立っている。引き上げ団体の代表がソ連兵となにか交渉をしている。ソ連語の話せる代表者で、いくらかのお金を出し合って通ることを許可されたものの、5分以内で通過せよという。600人もの団体を。遅れたものは殺されてしまう。必死で逃げた。

やっと38度線を超えてアメリカ軍支配下には入ったときは、もうすっかり日も暮れており、夜半になる頃には疲れ果てて歩けない。道中の民家の寝静まった軒先に座り込み休憩している間に私は眠ってしまう。歩き出すとき、父は私の顔を叩き「起きろ、歩くんだ!!」と起こされ疲れた足を引きずって、早朝やっと開城の町についた。広場にはテントが林のように並んでいて、避難民収容所となっていた。収容所にはおびただしい避難民が集まっていた。

そこでアメリカ軍に親切に保護されて、充分な食料を与えられ、毛布の上で寝ることも出来た。生きている喜びをかみしめていた。

(続く)

避難民生活

2019-11-14 | 遺稿集
これは私の母の家族のお話です。以下文中の私は母の妹です。

夕方、平城駅で下車、行く宛もないまま駅の軒下で親子5人うずくまって一夜を過ごした。(待合室に入ることは許されなかった。)

38度線を超えて、南朝鮮へ逃避しようとするものは脱走者として捉えられ、銃殺またはソ連へ送られる。仕方なく北朝鮮から来た日本人は全員平壌に集結。いつの日か帰国命令が出るまで、ソ連軍に従う覚悟で集団生活を始めた。平壌の町には各地から、見知らぬ日本人が続々と集まり五万人にもなった。元日本人学校、寺、神社に5百人、千人と各地に分散して同じ境遇を助け合って帰国の日を待った。

男子は三ヶ月間、無料で毎日強制労働に駆り出された。その後、男子は一日7円、女子は5円と安い報酬で働いた。(朝鮮人は一日30円くらい)

江界を出るとき、一家族に千円の所持金を許されたが、度々の検査で取り上げられ、平壌での生活中に無一物になり、私と弟が着ていた毛皮のオーバーも、いつしか食料と引き換えになって着たきりスズメになった。

平壌での日本人は生きるためにみな、乞食の境遇に身を落とし、惨めな生活を送っていた。お金もなく、衣類も食料もなく、塩汁に野草を浮かせただけの食事だったり。栄養失調でやせ衰えた体だけが残った。その体さえも夜になるとソ連兵が軍靴のまま踏み込んできては、恐ろしさのため怯えている若い女性を引きずっていった。断髪して身を守った女性もいたが、どれだけの女性がたちの悪いソ連兵の餌食になったであろうか。

飢えと寒さ、零下30度にも気温が下がる中で発疹チフスやコレラなどの伝染病が流行して、弱いものから命を奪われていった。

毎朝、4人、5人とコモに包まれた死体が運ばれて異国の土となった。餓死する日本人も多く、凍った川辺に転がっている死体をその頃、6歳の私は日光浴をしているものと思いこんでいた。

そのうち、兄も弟も麻疹にかかり、弟は41度の熱のために食欲もなく苦しんでいたが、薬どころか、何一つ買ってあげることも出来ない。天命に任せる他に方法はなかった。その弟をおいては母働きに出かけた。母の報酬は5円、この5円でりんごを2個買って弟に食べさせたとき、「お母ちゃん、明日も買ってきて」と言われても財布にはお金がなかったという。幸いにも弟はなんとか回復した。

また、帰国命令が出たときには、その旅費も必要である。親子で仕事を探し必死で働いた。父は経験を買われて大工仕事に、母はソ連兵の衣類の選択の仕事、兄と一緒に私も弟も凍って突き刺すように吹き付ける平城駅前に立って、新聞売をして1銭、2銭と蓄えた。平壌の、このような生活の中で9ヶ月が過ぎた。

(続く)

桜を見る会

2019-11-13 | 社会
来年の桜を見る会が中止になったという。首相が主催していたとは知りませんでした。園遊会との区別もよくわかっていませんので。桜はその時期になれば全国いたるところで見ることができます。ですから、安倍後援会の人は見れるのになんで自分は桜の会にいけないのかなんて全く考えたこともありません。

こんな問題を国会の大問題として取り上げている野党はどうかしています。やらないというのだからもういいんじゃないの。枝葉末節を取り上げないで、もっと大きな問題を考えてほしいものです。

政権交代前の野党は、消えた年金問題、無意味な箱物をこれ以上作らない、という議論をしていたように思うのです。

大学入試の英語の民間試験を何回受けるかという論点ではなく、そもそも日本の英語教育はこれでいいのか、外国語は英語だけでいいのか、中学で英語を学ぶのは良いとして、高校になったら中国語も選択できたほうがいいんじゃないのか、という議論だってあるように思う。

安倍内閣打倒というスローガンはいいけど、倒したあとどうしたいのかがさっぱり見えないのでは賛同しようがありません。

病気のデパート

2019-11-11 | 社会
技のデパート、疑惑のデパートといろんなデパートという表現がかつてありましたが、今週は自分が病気のデパートになってます。

寝る前にすること。
2ヶ月前から飲み始めたセサミン
4-5日前からできた口内炎に塗り薬:トラフル軟膏
1週間前から瞼の内側にできた出来物のための目薬:リンデロンA液
1ヶ月前に治った口唇ヘルペスの痕跡がまだ時々少し痛いので唇に塗り薬:ゲンタマイシン

あーやれやれです。

風力・太陽光発電と送電線

2019-11-11 | 再生可能E
自宅に太陽光発電を付けて自宅で使う、地産地消ならぬ自産自消。このとき余った電気は電力会社が買い取るという制度の後押しもあって広く普及しました。この買取制度は10年期限なので、これから買い取ってもらえなくなった電気をどうしようという問題が大きくなってくるようです。

それとは別にビジネスとして大型太陽光発電、風力発電をして電気を電力会社に売るという計画が、電気を送る送電線が足りなくなったので出来なくなるという事態も発生していると。

確かに北海道稚内地区には大型風力発電機が早い段階から建てられました。もっと建てられるそうですが、電力大消費地の札幌圏に送る送電線が足りないのでこれ以上はできないという話は以前から言われてました。

電気は発電と消費が常にバランスしている状態で運用されます。電気は化石燃料のようにタンクに貯めておく事はできないからです。日本の電気使用量は2010年以降減少しているのに送電能力が足りないというのは、少々不思議です。

送電線の使い方にどうやらからくりがあるようです。送電線はどこかが切れても電力は供給できるようにネットワークになっています。簡単に考えると予備を含めて常に二本を1セットでで運用するわけです。二本の送電線があるとすると、それぞれ1本は50%までしか使わない。残りの50%はもう一本が切れたときに使えるように余らせておくのが決まり。

更に送電線を使う権利は発電所ごとに割り当てられていて、これは早い順だという。発電事業は一度始めたら何十年も継続するものですから、送電線もその分確保しておく必要があります。また、電力の使用には波(ピーク時と平時)が有りますが、ピーク時に対応できるように送電線能力を確保しているそうです。

なので、後から後から風力や太陽光発電所ができると早い順に割り当てていた送電線の能力がどこかで足りなくなるということです。今は原子力発電所はほとんど止まってますが、その分の送電線を新しくできた太陽光発電所に割り当ててしまうと、いざ原子力発電所が再稼働(するのだろうか?)するときに、太陽光発電所を止めるというようなことになってしまう。それでは其の太陽光発電所の事業がたちいかなくなるので、最初から許可しないということだとか。

でも電気使用量は変わらないのだから、送電線で送られている電力も変わらないはずです。もっとうまい利用方法ないのでしょうか? AI君、考えてください。

Amazonを偽ったメール

2019-11-11 | 再生可能E
おれおれ詐欺にかかる年齢には少し早いが、メール詐欺には掛かってしまいそうです。

毎日Amazonにご登録の情報の確認という題名のメールが届きます。差出人はアマゾンのアカウントではありません。迷惑メールフォルダーに仕分けられているものもあるのですが、何通かは迷惑メールフィルターをすり抜けて受信箱に届きます。

開いてみるとレターヘッドにアマゾンプライムのマークが貼ってあって一瞬本物のように思ってしまいます。差出人のアドレスが怪しいことや、期限が切れたというメッセージにも???なので、指定のWebを開くようなことは無いのですが、紛らわしいことこの上ないです。

ググってみるとこの手のメールはアマゾンによく似たログインページに誘って、クレジットカード情報を盗むという手口らしいです。それで成りすまして買い物とかするんでしょうね。気をつけましょう。

平壌

2019-11-09 | 遺稿集
これは私の母の家族の物語です。以下一人称は母の妹です。

中国人が「私が中国服を用意しますから、それを着て一緒に逃げましょう」といってくれたが、両親は「中国語が話せないから」と母と私の朝鮮服(チョコリ)をわざわざ作り、朝鮮人に変装して、母は朝鮮式に弟を背負って住み慣れた家をあとにした。

街の駅から乗車したが途中で見つかり、次の駅で降ろされ「どうして汽車に乗ったのか、元の駅まで引き返せ」と言われて、歩いて逆戻り、日が暮れて自分の家に戻ってみれば、残してあった家財道具は全部持ち去られ、壊されてあばら家となっていた。隣の家で親切に一泊させてもらい翌朝、歩いて出かけた。途中の山中で保安隊が待ち伏せしており、リュックの中から身体まで検査され、貯金通帳、時計、万年筆など引き抜かれてしまった。歩き疲れて牛車を頼んで、私と弟の二人を乗せてもらったがまもなく見つかり、其の牛車引きに向かって「お前ら、いくら金をもらって乗せたのか」と保安官から、殴る、蹴るの暴力を受けて牛車引きは逃げ出してしまった。

私達はまた歩き出した。途中見知らぬ民家によって昼食を頂いたとき、母は祖母の形見として持ち出した、たった一枚のチリメンの着物をお礼にとここで手放してしまった。元気を出して出発、次の駅でなんとか汽車に乗ったら、他にも変装した日本人が小さくなって混じっていた。やがて句現駅に到着すると、「この中にいる日本人はみな下車しろ」との命令で皆、正直に下車し、警察署に連行され、厳しい所持品の検査を受けた。

ここは数年前まで父が勤務していた場所で、地元の有力者や顔なじみの仲間が多くいた。幸い暖かく迎え入れられ、検査官に対して、父のこと、過去の勤務中のことや実績など地元民からの人望の暑かったこと等、説明してくれた。おかげで私達家族は好意を寄せられ、その夜は元給仕の家に一泊し、温かい一夜を過ごし翌朝、改めて汽車にも乗せてもらい、一気に平城に向かうことができた。句現駅を離れるとき、父はここまで一緒に来てくれた中国人に熱く御礼を言って別れた。

以前話題になった「中国残留日本人孤児」の肉親探し、日本人の孤児を育ててくれた中国人の優しさを忘れたくないと思う。

(次に続く)

終戦

2019-11-04 | 遺稿集
これは私の母の家族の物語です。以下一人称は母の妹です。

父に召集令状が届き、昭和19年10月に一家で帰国した。その後、招集解除になって昭和20年6月末にふたたび朝鮮に戻るとき、戦局混乱の中で切符の制限があり、父は静岡県庁まで依頼にでかけたが、家族全員分が入手できず、必ず迎えに来るからと姉を母の実家へ一時預けた。

朝鮮の自宅へ到着後、一ヶ月あまりで思いもかけない「昭和20年8月15日」の終戦を迎え、在留邦人にとっての長い苦難の旅路が始まったのである。

朝鮮半島が南北に分断された後、ソビエト軍の支配下にある北朝鮮側に取り残された私達は、帰国への道を完全に閉ざされた。この日を境に周囲の朝鮮人の態度が180度変わった。「今日から独立した朝鮮国民だ」と、翌日には「金日成バンザイ」と叫びながら旗行列、提灯行列が続き昔の国家を歌い始め、一言の日本語も話さなくなった。二十日すぎからは毎日、ソ連の兵隊を満載した列車が北朝鮮に入ってきた。保安部隊が組織されて、日夜警戒にあたり「日本は無条件降伏したのだから、全財産をおいてゆけ!!命だけは日本のものだから返してやる。汽車にも乗るな、歩いて帰れ」という。

父は職を剥奪され、家屋敷、田畑、山林と全ての財産を没収された。父が在職中、事務の関係で懇意だったのが幸いして終戦後も中国人が、私達の味方になってくれた。また、親しかった朝鮮人が密かに食料を届けてくれたり、中国人のお世話になったりして、一ヶ月あまりを家で過ごすことができた。その間、朝鮮人が勝手に上がり込んでは何かと持ち出そうとするので、母は親しかった人たちにタンスの衣類、その他の道具類を分けていた。5人分のリュックサックに当座の着替えと毛布を入れて、戦争に負けた惨めさを味わい、茨の道を歩き始めた。

しかし、アメリカ軍支配下の南朝鮮を経て日本に帰るには、命がけの38度線超えが必要だった。現在の地図には載っていないが、私達は鴨緑江に近い北朝鮮平安北道江界郡前川面仲岩に住んでいた。歩いて帰れと言われても、平壌、現在の平壌まででも320キロはある。

(続く)

朝鮮

2019-11-03 | 遺稿集
これは私の母の家族の物語です。以下一人称は母の妹です。

私の両親は昭和6年4月に朝鮮に渡り、足かけ16年の外地生活で、父は警察官であった。父の仕事の関係で毎年、年末には近郷近在の人たちから、たくさんのお歳暮の品々がとどいた。それらをフルに活用して正月料理の準備に取り掛かるが、徹夜することもあった。

正月には百人余りの年始客で、母は其の接待に追われていた。朝鮮の板前さんは泊まり込みで朝鮮料理を、母は日本料理を、母が得意とする品の一つに羊羹があり好評だった。姉と私は晴れ着を着せてもらい、お年玉をたくさん頂いて喜んでいた。また、母は教師の経験を買われ、日本人学校の教壇に立っていた。私はお手伝いさんと一緒に乳母車に弟を乗せて学校へ行っては遊んでいた。

 当時、家の周りに咲き乱れていたマツバボタンの花。朝鮮の子どもたちと走りまわって遊んだ野原。のどかで恵まれた平和な日々のことが思い出される。

(続く)

原発と関電

2019-11-01 | エネルギー
1割。これは現在稼働中の原子力発電の割合です。日本にある60基の原発のうち稼働しているのは僅かに6基です。またこの内24基は廃炉になることが決まってます。せっかくある設備だし、CO2排出はないし(付帯設備等を考えればゼロではないと思うが)使えるものは使ったほうが良いという意見があります。東北大震災以前には電力の30数%は原発が賄っていたのですから。政府のエネルギー基本計画でも将来は2割程度のベースロードとして原発を想定しています。

ところで先日らい話題になっている関電の問題。これは収賄といっていいと思いますが、今どき言語道断というのが庶民感覚です。会長、社長はじめ役員は当初辞職しないと言ってましたが、当然それは通る話ではありません。
聞けば関電の会長、社長は電力会社の業界団体である電事連の会長、副会長といいます。だめですね。これで原発再稼働に向けては予定外のハードルができたと言えます。

原発が本当に安全であれば再稼働してもいいんじゃないの。ことさらに神経質な条件をつけるのではなく、科学的にリーズナブルな条件をクリアした原子炉を再稼働することは必要なことでしょう。

但し思うのは福島原発の後処理をしっかりした上でないと、再稼働は許されないんじゃないでしょうか。事故によらない廃炉が今後24基も計画されているのです。シッカリと廃炉にする技術が確立できないうちに再稼働というのはあまり納得できるものではありません。