夜間、父島では異様な光景が広がる。高台から海を望むと、島をぐるりと囲むように中国漁船の光であふれる。光を追う海上保安庁の巡視船のサーチライトも回り続ける。小笠原村総務課長の渋谷正昭さん(57)は「自慢の星空が台無しだよ」と漏らす。
1隻の中国漁船にはおよそ10人が乗っているとみられる。100隻だと単純計算で千人。「父島の人口の半数に匹敵する中国人に囲まれているようなものだ」と住民は口をそろえる。
11月上旬に台風20号が接近した際、中国人の上陸はなかったが、万一の悪天候のときには押し寄せてくる恐れもある。警視庁が応援派遣した28人の機動隊員らがパトカーで頻繁に付近を巡回しているが、住民の不安は尽きない。
長女が生まれたばかりの主婦、佐々木里美さん(38)は「密漁するくらいなので、上陸して犯罪に手を染めないか心配」。飲食店を営む高谷裕一さん(53)は「上陸されれば、島もあっという間に乗っ取られる」と危ぶむ。
小笠原村は再三、政府に対策を求めている。渋谷さんは「何かあってからでは本当に遅い。警備を強化してほしい」と訴える。
漁具・ペットボトル
異変が、じわりと島にも押し寄せている。海中の美しさで知られる父島の北にある釣(つり)浜(はま)。「和其…」「百…水」。波打ち際には、海から流れついた中国語のラベルが貼られたペットボトルや漁具などが散乱する。
「中国漁船の乗組員は平気で海に物を投げている。歯ブラシやペットボトルを笑いながら捨てる様子を見た」。地元漁師の石井勝彦さん(62)は証言する。
小笠原諸島は貴重な自然であふれ、世界自然遺産に認定されている。サンゴの密漁が続けば、自然環境や生態系にも影響を与える可能性もあり、主力の観光が打撃を受ける恐れがある。
中国漁船が大挙した10月中旬、観光の目玉でもあるイルカの姿が見られなくなったことがあったという。自然ガイドの竹澤博隆さん(41)は「中国漁船の影響かどうかは不明だが、イルカやクジラを見ても避けることなく、お構いなしに航行するのが中国漁船。悪影響を与えているのは間違いない」と唇をかむ。
現時点で客足に影響はないというが、小笠原村観光協会には観光客から「大丈夫か」との問い合わせもある。同協会の磯部純子さん(40)は「危険という印象で敬遠される風評も懸念される。しかし貴重な海がどうなるのか。自然を壊す行為は一刻も早くやめてほしい」と訴える。
「すべてが台無し」
小笠原諸島には約30年前にも苦い経験があった。台湾漁船が大挙押し寄せ、同じようにサンゴが奪われた。魚が集まるのはサンゴの周辺。台湾漁船に奪われてしまった結果、周辺海域ではハタやヒメダイなどの根魚が激減した。
途方に暮れた漁師らは、打開策として新たな漁を模索した。独自に発展させた回遊魚のメカジキ漁だ。地元の漁師らが、こぞってメカジキ漁に特化したおかげで、激減した根魚は徐々に増え始め、サンゴも回復する好循環を生んだ。
小笠原島漁協の昨年の水揚げは過去最高の4億円を突破。漁協参事の稲垣直彦さん(56)は「せっかく良くなってきたのに…。すべて台無しにされた。この先、どうなるのか」と頭を抱える。
密漁は取り締まりが難しいとされる。魚やサンゴなどはどこで獲ったものなのかを立証するのが難しく、現場を押えるのが唯一の摘発手段だからだ。だが、中国漁船もレーダーなどを備え、向かってくる巡視船は船影などで確認できて逃げてしまうケースが多い。
結局、中国漁船の違法操業に歯止めはかからず、目の前でサンゴが根こそぎ奪われていく。石井さんは海を前につぶやいた。
「最近、ここは本当に日本の領海なのかと思う。このままでは中国の海になってしまう」(森本充)