日本が一番弱い時に竹島を取った韓国 下條正男・拓殖大教授
竹島問題は、1952年1月18日、当時の李承晩・韓国大統領が公海上に「李承晩ライン」を引き、竹島を一方的に韓国領に含めてしまったのが発端だ 韓国は当時、北朝鮮との動乱が続いていたさなかで、多くの韓国人が日本に逃げ込んでいた。また、日本は53億ドルともいわれる資産を朝鮮半島に残していた。そんな中、同年2月から始まった日韓国交正常化交渉で、韓国側としては、多数の韓国人を日本から送り返されたり、膨大な資産を回収されたりしては困る このため、外交カードとして使われたのが竹島であり、李ラインを理由に拿捕(だほ)・抑留された日本の漁船員であった 交渉の結果、1965年6月に日韓基本条約が締結された。結局、日本は無償で3億ドル、有償で2億ドル、民間から3億ドルを韓国側に渡し、朝鮮半島に残した資産もそのままとなった その後、国連海洋法条約(1994年発効)に基づき、各国が自国の排他的経済水域を設定する中で、韓国は竹島の不法占拠を正当化する手段として、竹島に接岸施設を作った。日本は抗議したものの、結局なにもできなかった そんな日本の状況を一変させたのが、島根県の「竹島の日」条例だ。竹島周辺の海域は本来、日本の排他的経済水域内だが、日韓両国の共同管理水域となってしまい、たくさんの韓国船が入って不法状態となったため、島根県は2005年3月に条例を制定し、領土権の確立を求めた この年は、日本政府が竹島の領土編入を閣議決定し、島根県が県告示で隠岐島司の所管とした1905年からちょうど100周年。島根県はこれを記念して「竹島の日」を設け、領土権の確立を目指したのだ 国家には、領土・領海・領空▽国民▽主権-の3要素がある。領土を侵されたり、国民が拉致されたりした場合、それは国家が侵されているのであり、政治家であれば、国会議員であれば、なおさらそれに対応しなければならない 日本は北朝鮮による拉致を放置してきたし、尖閣諸島の問題もアメリカに解決を頼ってきた。竹島や北方領土の問題も未解決のままだ 島根県がこういう対応をしなければ、誰も動かなかったということだ。この条例制定が、新たな東アジア情勢を語る基点になるかもしれないし、そうしていかなければいけない 韓国側は、問題が起こったときの対応が早い。島根県が条例を制定する直前、当時の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が「東北アジアの平和のための正しい歴史定立企画団」の設立を法律で定め、条例制定後の翌月にはこれを発足させた 日本には、外務省の外郭団体として日本国際問題研究所があり、島根県の竹島問題研究会の何十倍もの予算を使って活動しているが、成果は何十分の一ほども挙げていない。韓国側が標的にしているのは、あくまでも島根県の竹島問題研究会。ここが、国に代わり韓国に対して反論をしているのだ 竹島の日条例は、日本の政治のあり方を考え直す原点を作った。今後、これをどう解決に結びつけていくか。国際法の観点を主張するだけでなく、仲良くしようということだけでなく、自分たちの主張を明確にしていくことが重要 韓国は長い歴史の中で、日本が弱いときには中国につき、中国が弱くなると日本についてきた国。李ラインを引き、竹島を不法占拠したのは、第二次大戦で日本が敗れ、サンフランシスコ平和条約の発効前で日本が国家としての資格を持っていない時だった。日本が一番弱いときに、韓国が取ったのだ 問題は、尖閣諸島に対しても竹島に対しても、「日本の領土ではない」という人たちが日本国内にも多数いることだ。われわれは、そうした見解の異なる人たちとも戦っていかなければならない。そのためには「竹島問題を考える講座」のような会をもっと開いて、みなさんに理解してもらうことが必要になる。(7月末に開催された講座の詳報です)