書斎の西側2間全面に小生が設計した造り付けの本棚がある。何年来整理整頓しておらず、収納出来ずに本棚の前にまで本やら何やらが積み上げられた状態であった。
エアコン工事を契機に一念奮起整理することにした。過去の遺物の一つに大量の5インチFDがあった。5インチFDのパソコンは既に処分しており、無用の長物となっていたもので、情報の流失を懸念し、ハサミで2ヶ所切り込みをして廃棄した。
小生のコンピュータとの出会いは、1964年の新入社員研修であった。その後、コンピューターの造詣が深かった同期入社で同窓のT君の助言を得ながら、当時経理用のIBM1400を使って、一様でない梁の強度計算や騒音の合成などを手がけた。因みにT君のご子息は現在NHK本局のニュースアナウンサーとして活躍されておりTVで頻繁に登場されている。
当時は言語としてはFORTRANを使い、一行づつカードにパンチして読み込ませたものである。女性の方がタイプライターのようなカードパチングマシンを操作されており、キーパンチャーという職種が存在した。
使用したは経理計算用コンピューターIBM1400は大きく空調の効いた一つの部屋を占拠していた。私のプログラムは収束計算であったため、一つの解が出るまでに5分以上かかり、最初のころは経理の方にプログラムがループしていると言われたものである。
その後、プロセス制御用のIBM8800が導入されると同じプログラムでも瞬時に解が印字され、進歩の速さに驚嘆した。
1980年代後半には第一世代のパソコンがNECから発売され、コンピューターが身近になった。小生は1988年にNECの互換機であるEPSONのPC286VEを購入した。買値は35万円程と記憶している。このFDが5インチであった。
可なりPCに嵌まり込み、当時は未だ汎用ソフトは少なく、会社全体で使用する設備診断技術検索ソフトを作り上げた。プログラミング言語はBASICである。入力方法も当時としては斬新で、カーソルを入力箇所に移動すると選択肢が表示されるようにした自分として自慢できる物であった。
その後は、データーベースソフトなど多数の汎用ソフトが発売され自分でプログラミングすることが無くなった。
インターネットも未だダイヤルアップだけで、上越にはプロバイダーがなく上越教育大学が実験としてプロバイダーをやっていた1993年頃から加入してインターネットに親しみ今日に至っている。