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2015-12-28 13:37:48 | 小説
年金生活で、
年内は大掃除いや中掃除です。
現役のときは時間が少ないのにしっかりと掃除していたのに・・・
大晦日には鏡餅など正月飾りつけ、
夕食は取り寄せの「おせち」で帰省する子供達と宴会。
元旦午前は町内会の新年祝賀行事のお屠蘇でほろ酔いです。

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2015-12-21 13:45:10 | 小説
もう50年以上前になります。
大学を卒業、就職して間もない頃昭和40年(1965)ころです。
漸く欲しかったレコードプレーヤーと同時に買った。
カラヤン指揮、ベートーベンの「運命」か、
または、ドボルザークの「新世界より」だったと思います。
寮の自室で聞き心が癒されたことが思い出されます。

忘れえぬ女-(最終回その11 その後の人生--山陽地方への転勤)

2014-11-25 09:09:59 | 小説
<山陽地方への転勤>

いつになっても結婚しない達也に対し、世間では何か欠陥があるのではないかとの陰口を言う人もいたようだ。
 「そんな子供を生んだ覚えはない」「七十歳を過ぎて内孫が居ないのは自分だけだ」と言って母を悲しませてしまい、結果的に親不孝をしてしまった。
 また、従来は縁談を断ることが殆どであったものが、その頃になると、断られるケースが増えてきた。

 そうこうするうち、今の妻の積極性に押され、遂に達也も家庭を持ち子供も授かるのであった。
妻の積極性がなかったら、ゆみを想い一生独身で家庭を持てなかったような気がしている。

 その後、達也は山陽地方に転勤することになり、丁度瀬戸大橋の工事期間を挟んで約十年間故郷を留守にした。
 年老いた母と祖母を故郷に残すに当たり、達也は親戚に後事をお願いした。
また、達也の家族は子供の夏休みの殆んどを故郷で母と過ごした。
盆には達也も一週間ほど帰省し、家族全員で倉敷に戻ることが多かった。
母が故郷に居た時は出来るだけ正月も家族で帰省するようにしていた。

 山陽での達也は人生で一番充実していた時期でもあった。
社宅も広く、妻の兄などはその広さにびっくりしていたそうである。
 仕事の方でも、NHKの「プロジェクトX」に描かれたドラマに近い感動を仕事で味わうことも出来、毎日が希望に満ちていた。
 達也はある全社的プロジェクトを主催していたので、年に数回は東京で金曜日に会議を開催し、終了後故郷の母のところで一、二泊し北陸線で山陽へ帰るのであった。
 故郷に帰り日常の喧騒から開放されて一人になると、
「ああ、ゆみもこの同じ空の下で、同じ空気を吸っているんだなあ」と懐かしく思い出すのであった。

 達也は社内ばかりでなく、社外の方々ともとも親しくさせて頂き、ゴルフなどは平均して月に二回ほどプレーした。
 回数の多さに比例せず、かつレッスンプロに付いたにも拘わらずスコアは一向によくならなかったが、プレーに加え景色も十分に堪能した。
 瀬戸内海を見下ろすコースや満開の桃の花を見ながらのプレー、中でも鳥取県の大山高原での一泊二日のプレーは一番印象が強い。
 地元に帰ってからも数回コンペに参加したが、馴染めずにゴルフそのものを止めてしまった。
 また、達也の性格として論理的かつ定量的に物事を処理することを重視していたことから、大学の先生とも交流させていただき、広島大学のある先生には飲み会の席とは言え「弟子にならないか」と誘われて悪い気はしなかった。


母も転勤当初数年間は冬になると家を留守にし、気候のよい山陽で過ごした。

 母に「皆はこちらに永住しても良いよ」とまで言われ、とりあえず土地は手当てしたが、肝心の達也は望郷の念が強く家を建てる気にはなれなかった。
 故郷に戻るに当たり土地を処分したが、その後すぐ近くに“マスカット球場”が建設されプロ野球の公式戦が開催されるようになり当時とは様変わりに発展したようである。

 達也は山陽を拠点に瀬戸内海の宮島、小豆島などの島々、中北九州、山口県、島根県、鳥取県、広島県、兵庫県、四国と各地によく家族で旅行にでかけた。
 母にも経験することのなかった潮干狩りをやってもらったし、忠臣蔵ゆかりの赤穂城へも案内できた。
 また、瀬戸大橋が完成すると達也の姉たちも訪ねてきて、岡山の後楽園、倉敷美観地区を見学し、航路が瀬戸大橋沿いのフェリーで島に渡り一泊、翌日は四国に渡り金比羅、栗林公園などを観光し車で瀬戸大橋を渡り社宅で泊まり、翌日はまた岡山県内を案内した。


 ゆみと結婚していたらどうだったろう。転勤が一番の危機になったのではなかろうか。

「果たして、彼女は育児のため仕事をやめてくれたであろうか」
「転勤先に一緒に来てくれたであろうか」
「単身赴任だったら、夏休みなどは転勤先へ来てくれたであろうか」
「でも、ゆみのご両親のこともあって無理は言えなかったであろうし」

 などと達也として気掛かりな面がある一方、一番充実していた時期をゆみと過ごすことが出来なかった悔しさが残ってしまう。


 達也は故郷で一人暮らしの母が八十歳を向かえるや、故郷で一緒に暮らすべきだとの想いが強くなった。そんな訳で、会社での立場が不利になることを承知で故郷に転勤させてもらった。


 達也は故郷に帰ってから、ゆみの実家の近くへ出かける機会があった。
ゆみは其処にいる筈がないのに自然と足がゆみの実家の方へ向いてしまった。
しばしその家を見て郷愁に浸るのであった。
ゆみの実家は空き家の様子で、ご両親はゆみの家族とでも同居されているのであろうか?などと思いを馳せるのであった。


忘れえぬ女-(その10 その後の人生-禅との出会い)

2014-11-24 10:56:06 | 小説
<禅との出会い>


 ゆみと別れて半年ほど経った頃、彼女と同じ学校に勤務している達也の親戚筋の方が母を訪れ、相手を達也と勘違いされ、
「婚約されたそうで、おめでとうございます」と言われた。
そこで、初めてゆみが別の方と婚約したことを知ることとなった。と同時に、職場ではゆみが達也と交際していたことが知られていたと言うことであり、彼女には大変な迷惑をかけてしまった。

 さらに、その後、車同士のすれ違いに赤ちゃんを抱いているゆみを見かけるに至って、言いようのない悔しさ・淋しさを伴う敗北感に襲われるのであった。
 
 ゆみと別れて、達也はまるで肉親が亡くなった時のような喪失感におそわれ、彼女の存在が如何に大きかったかを知らされることとなった。
自分の方から別れておきながら、こんな気持ちになったのは初めてであり、誰の言葉か忘れたが、次のような心境であった。

    幸福というのは不思議なもの。
    自分の掌に抱いている時は、それほどに感じられない。
    まだおとずれていないか、逃げ去ってしまうと、その姿をいたずらに追い求める。
    そして、その影を追えば追うほど遠ざかる。
    空を横切る雲のように速足で・・・・・・・。

また
    「幸運の女神には前髪しかない」 という西洋の諺がある。
      幸運の女神に出会ったら前髪を掴め
      後ろ髪がないから、通り過ぎたら掴む所がない

このような心の状態では他の女性との出会いを求める気にはなれなかった。

 とは言っても、達也も年齢が年齢だけに母はいろんな女性の話を持ってきたし、会社関係からも幾つか話がきた。
 中には自分の意思にかかわらず話が進んでしまいそうになったことがあった。
「なぜ、ゆみを失ったしまったのか」という心の葛藤がおこり、仕事の行き詰まりも重なり一時期精神的に不安定になった。さらには、今の自分は夢を見ているのではないだろうか?
寝て目が覚めたら、ゆみが傍にいるのではないかという現実逃避の気持ちもおこってしまった。


何とかその件が解決されると、少しづつ心の安定を取り戻したが、自分の心の弱さを知った達也は曹洞宗の門を叩き禅の世界に活路を見出そうとした。
 初めて門を叩いた時、方丈さんが本気度を試すためか容赦ない警策を入れられた。
 八の日の早朝六時から一時間の座禅、般若心経の読経、早朝作務、最後に梅干をお供にお茶を戴くのであった。
 曹洞宗は儀式仏教と言われるように作法が細かく決められている。
 まず山門を入ってから作務が終わるまで無言を通さなければならない。
 挨拶は合掌し一礼するだけであり、堂への入り方、歩き方、座り方、経本の持ち方、ページのめくり方に至るまで作法が決まっており、各動作の区切りは雲版や鐘で合図される。

 達也の座禅は只管打坐には程遠く雑念の連続であったが、なるべく思考を連鎖しないように勤めた。その結果、暁天座禅のあとは朝の爽やかさも加わり心もなんとなく爽やかになった。
 参禅会に参加される年代、地域、職業の異なる多くの方と交わることが出来視野が広がり今まで知らなかった世界を見る感じであった。

 そうこうするうちに、会の会計を担当させられ方丈さんの意向を伺いながら会の運営に携わるようになり、参禅以外にも寺の行事にかり出されるようになった。
 参禅を機に良寛禅師に引かれ、出雲崎、輪島、島崎、国上寺などゆかりの地を何回か訪れた。
 また、現代の名僧沢木興道の全集も揃え勉強しようとしたが中々難解で挫折してしまい積読になっているが、いつの日か読破したい。


さらには、山陽地方への転勤後も良寛の修行の寺である玉島円通寺の参禅会にも参加した。
 円通寺は往時のような修行の場というよりは良寛観光としての面が色濃く、故郷の寺での参禅のような厳格さはなかった。
 円通寺の参禅会のなかに京大出身で三菱商事に勤務されていた方が得度され永平寺へ入られるということがあった。
ご両親は嘆かれ反対されたそうであるが、世の中高度成長で人心を失いかけていた頃でもあり、生き方を禅に求める若者が珍しくなかった。

忘れえぬ女 -(その9 分水嶺)

2014-11-23 09:47:58 | 小説
不思議と気持ちに迷いが生じると、悪魔が心の隙間に入り込んで来てしまう。
達也が母にゆみと結婚したいと告げたところ

 「仲人は二番目に話のあった地方政治家に頼まないといけない」と言い出し、
恩師の仲介で二人が会ったのに、“あちら立てればこちらが立たぬ”の状態になってしまった。             達也は、このことをゆみには言い出せず一人心を痛めるのであった。   
 ゆみとの結婚に何の迷いも無かったなら、ゆみに対するエネルギーの強さでこんな障害は乗り越えたであろうが。


 そのころ、紹介してもらった恩師からは先の段階への展開を問われるし、ゆみにも「私達そろそろハッキリしないといけないね」と言われる状況に至ってしまった。
ゆみとの縁談は親が同席しなかったものの、恩師宅で紹介されておりお見合いという分類になるのであろうか?お見合いでなかったら、結論を急がずにもっと気楽にゆみとお付き合いが出来たのに。

 達也は自分一人では結論を出せず、当時のゆみを知る同じ教育界の方の意見を求めたりした結果、別れることにしてしまった。
 別れた日のことについて、達也は行動から会話の内容まで詳細に記憶している。
それは達也が別れた直後から喪失感に見舞われ、深い悔悟の念を抱き続け、当日の過ちを反芻してきているためである。まさに、「覆水盆に返らず」になってしまった。
 この日のことについては、余りにも辛く敢て読者の想像に委ねることにする。