川村妙慶尼 本日のデイリー法話に下記の一文が載っていた。
老いの身となる準備はできていますか?
やがてあの人と別れなければならないという「心の準備」ができていますか?
最悪の事態がきても、向き合える準備ができていますか?
幸せを築けた時ほど感謝できる心をもてそうですか?
問われてみて、果たして自分はどの程度心の準備が出来ているのであろうか?
六十も半ばになると、お迎えへの準備もしておかなければならない。
近年、エンデイングノートと言う物があるそうだ。
小生の祖母が亡くなった時は地元から遠く離れた地に勤めており、危篤の電話で慌ただしく七百キロの道を車を飛ばして帰った。
二日後に亡くなったが、日頃からこう言う事態に対する準備が出来ておらず、喪主として右往左往してしまった苦い経験がある。
その経験から、小生にお迎えがあった場合の対処法についての書き物を準備して家族に知らせている。
これはどちらかといえば、物質的な準備であって、心の準備となると全く出来ていないのが実態である。
昨年、人間ドックでの便潜血反応が陽性だったため、内視鏡検査を受ける事態になった。
このことだけで心穏やかでなく関連本を読み漁ったり、人に意見を求めたりと狼狽の態であった。
幸い切除すべきポリープも見つからず、次回の検査は二、三年後で良いと診断され周囲に笑われる始末であった。
遅まきながら、心の準備もしなければとの思いを抱かされた。
まず、物質的身辺整理から初めて、心の整理、心構えへと思っている。
しかし、心の整理のためには自分自身だけでは処理出来ないこともある。
若気のいたりで、心ならずも傷つけてしまった人、誤解を与えてしまった人。
実際、自分の正直な気持ちを伝えようと試みたこともあるが、当然ながらその方の気持ちは当時とは変わってしまっていて、受け入れてもらえず淋しく虚しい思いがした。