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忘れえぬ女-(最終回その11 その後の人生--山陽地方への転勤)

2014-11-25 09:09:59 | 小説
<山陽地方への転勤>

いつになっても結婚しない達也に対し、世間では何か欠陥があるのではないかとの陰口を言う人もいたようだ。
 「そんな子供を生んだ覚えはない」「七十歳を過ぎて内孫が居ないのは自分だけだ」と言って母を悲しませてしまい、結果的に親不孝をしてしまった。
 また、従来は縁談を断ることが殆どであったものが、その頃になると、断られるケースが増えてきた。

 そうこうするうち、今の妻の積極性に押され、遂に達也も家庭を持ち子供も授かるのであった。
妻の積極性がなかったら、ゆみを想い一生独身で家庭を持てなかったような気がしている。

 その後、達也は山陽地方に転勤することになり、丁度瀬戸大橋の工事期間を挟んで約十年間故郷を留守にした。
 年老いた母と祖母を故郷に残すに当たり、達也は親戚に後事をお願いした。
また、達也の家族は子供の夏休みの殆んどを故郷で母と過ごした。
盆には達也も一週間ほど帰省し、家族全員で倉敷に戻ることが多かった。
母が故郷に居た時は出来るだけ正月も家族で帰省するようにしていた。

 山陽での達也は人生で一番充実していた時期でもあった。
社宅も広く、妻の兄などはその広さにびっくりしていたそうである。
 仕事の方でも、NHKの「プロジェクトX」に描かれたドラマに近い感動を仕事で味わうことも出来、毎日が希望に満ちていた。
 達也はある全社的プロジェクトを主催していたので、年に数回は東京で金曜日に会議を開催し、終了後故郷の母のところで一、二泊し北陸線で山陽へ帰るのであった。
 故郷に帰り日常の喧騒から開放されて一人になると、
「ああ、ゆみもこの同じ空の下で、同じ空気を吸っているんだなあ」と懐かしく思い出すのであった。

 達也は社内ばかりでなく、社外の方々ともとも親しくさせて頂き、ゴルフなどは平均して月に二回ほどプレーした。
 回数の多さに比例せず、かつレッスンプロに付いたにも拘わらずスコアは一向によくならなかったが、プレーに加え景色も十分に堪能した。
 瀬戸内海を見下ろすコースや満開の桃の花を見ながらのプレー、中でも鳥取県の大山高原での一泊二日のプレーは一番印象が強い。
 地元に帰ってからも数回コンペに参加したが、馴染めずにゴルフそのものを止めてしまった。
 また、達也の性格として論理的かつ定量的に物事を処理することを重視していたことから、大学の先生とも交流させていただき、広島大学のある先生には飲み会の席とは言え「弟子にならないか」と誘われて悪い気はしなかった。


母も転勤当初数年間は冬になると家を留守にし、気候のよい山陽で過ごした。

 母に「皆はこちらに永住しても良いよ」とまで言われ、とりあえず土地は手当てしたが、肝心の達也は望郷の念が強く家を建てる気にはなれなかった。
 故郷に戻るに当たり土地を処分したが、その後すぐ近くに“マスカット球場”が建設されプロ野球の公式戦が開催されるようになり当時とは様変わりに発展したようである。

 達也は山陽を拠点に瀬戸内海の宮島、小豆島などの島々、中北九州、山口県、島根県、鳥取県、広島県、兵庫県、四国と各地によく家族で旅行にでかけた。
 母にも経験することのなかった潮干狩りをやってもらったし、忠臣蔵ゆかりの赤穂城へも案内できた。
 また、瀬戸大橋が完成すると達也の姉たちも訪ねてきて、岡山の後楽園、倉敷美観地区を見学し、航路が瀬戸大橋沿いのフェリーで島に渡り一泊、翌日は四国に渡り金比羅、栗林公園などを観光し車で瀬戸大橋を渡り社宅で泊まり、翌日はまた岡山県内を案内した。


 ゆみと結婚していたらどうだったろう。転勤が一番の危機になったのではなかろうか。

「果たして、彼女は育児のため仕事をやめてくれたであろうか」
「転勤先に一緒に来てくれたであろうか」
「単身赴任だったら、夏休みなどは転勤先へ来てくれたであろうか」
「でも、ゆみのご両親のこともあって無理は言えなかったであろうし」

 などと達也として気掛かりな面がある一方、一番充実していた時期をゆみと過ごすことが出来なかった悔しさが残ってしまう。


 達也は故郷で一人暮らしの母が八十歳を向かえるや、故郷で一緒に暮らすべきだとの想いが強くなった。そんな訳で、会社での立場が不利になることを承知で故郷に転勤させてもらった。


 達也は故郷に帰ってから、ゆみの実家の近くへ出かける機会があった。
ゆみは其処にいる筈がないのに自然と足がゆみの実家の方へ向いてしまった。
しばしその家を見て郷愁に浸るのであった。
ゆみの実家は空き家の様子で、ご両親はゆみの家族とでも同居されているのであろうか?などと思いを馳せるのであった。


忘れえぬ女-(その10 その後の人生-禅との出会い)

2014-11-24 10:56:06 | 小説
<禅との出会い>


 ゆみと別れて半年ほど経った頃、彼女と同じ学校に勤務している達也の親戚筋の方が母を訪れ、相手を達也と勘違いされ、
「婚約されたそうで、おめでとうございます」と言われた。
そこで、初めてゆみが別の方と婚約したことを知ることとなった。と同時に、職場ではゆみが達也と交際していたことが知られていたと言うことであり、彼女には大変な迷惑をかけてしまった。

 さらに、その後、車同士のすれ違いに赤ちゃんを抱いているゆみを見かけるに至って、言いようのない悔しさ・淋しさを伴う敗北感に襲われるのであった。
 
 ゆみと別れて、達也はまるで肉親が亡くなった時のような喪失感におそわれ、彼女の存在が如何に大きかったかを知らされることとなった。
自分の方から別れておきながら、こんな気持ちになったのは初めてであり、誰の言葉か忘れたが、次のような心境であった。

    幸福というのは不思議なもの。
    自分の掌に抱いている時は、それほどに感じられない。
    まだおとずれていないか、逃げ去ってしまうと、その姿をいたずらに追い求める。
    そして、その影を追えば追うほど遠ざかる。
    空を横切る雲のように速足で・・・・・・・。

また
    「幸運の女神には前髪しかない」 という西洋の諺がある。
      幸運の女神に出会ったら前髪を掴め
      後ろ髪がないから、通り過ぎたら掴む所がない

このような心の状態では他の女性との出会いを求める気にはなれなかった。

 とは言っても、達也も年齢が年齢だけに母はいろんな女性の話を持ってきたし、会社関係からも幾つか話がきた。
 中には自分の意思にかかわらず話が進んでしまいそうになったことがあった。
「なぜ、ゆみを失ったしまったのか」という心の葛藤がおこり、仕事の行き詰まりも重なり一時期精神的に不安定になった。さらには、今の自分は夢を見ているのではないだろうか?
寝て目が覚めたら、ゆみが傍にいるのではないかという現実逃避の気持ちもおこってしまった。


何とかその件が解決されると、少しづつ心の安定を取り戻したが、自分の心の弱さを知った達也は曹洞宗の門を叩き禅の世界に活路を見出そうとした。
 初めて門を叩いた時、方丈さんが本気度を試すためか容赦ない警策を入れられた。
 八の日の早朝六時から一時間の座禅、般若心経の読経、早朝作務、最後に梅干をお供にお茶を戴くのであった。
 曹洞宗は儀式仏教と言われるように作法が細かく決められている。
 まず山門を入ってから作務が終わるまで無言を通さなければならない。
 挨拶は合掌し一礼するだけであり、堂への入り方、歩き方、座り方、経本の持ち方、ページのめくり方に至るまで作法が決まっており、各動作の区切りは雲版や鐘で合図される。

 達也の座禅は只管打坐には程遠く雑念の連続であったが、なるべく思考を連鎖しないように勤めた。その結果、暁天座禅のあとは朝の爽やかさも加わり心もなんとなく爽やかになった。
 参禅会に参加される年代、地域、職業の異なる多くの方と交わることが出来視野が広がり今まで知らなかった世界を見る感じであった。

 そうこうするうちに、会の会計を担当させられ方丈さんの意向を伺いながら会の運営に携わるようになり、参禅以外にも寺の行事にかり出されるようになった。
 参禅を機に良寛禅師に引かれ、出雲崎、輪島、島崎、国上寺などゆかりの地を何回か訪れた。
 また、現代の名僧沢木興道の全集も揃え勉強しようとしたが中々難解で挫折してしまい積読になっているが、いつの日か読破したい。


さらには、山陽地方への転勤後も良寛の修行の寺である玉島円通寺の参禅会にも参加した。
 円通寺は往時のような修行の場というよりは良寛観光としての面が色濃く、故郷の寺での参禅のような厳格さはなかった。
 円通寺の参禅会のなかに京大出身で三菱商事に勤務されていた方が得度され永平寺へ入られるということがあった。
ご両親は嘆かれ反対されたそうであるが、世の中高度成長で人心を失いかけていた頃でもあり、生き方を禅に求める若者が珍しくなかった。

忘れえぬ女 -(その9 分水嶺)

2014-11-23 09:47:58 | 小説
不思議と気持ちに迷いが生じると、悪魔が心の隙間に入り込んで来てしまう。
達也が母にゆみと結婚したいと告げたところ

 「仲人は二番目に話のあった地方政治家に頼まないといけない」と言い出し、
恩師の仲介で二人が会ったのに、“あちら立てればこちらが立たぬ”の状態になってしまった。             達也は、このことをゆみには言い出せず一人心を痛めるのであった。   
 ゆみとの結婚に何の迷いも無かったなら、ゆみに対するエネルギーの強さでこんな障害は乗り越えたであろうが。


 そのころ、紹介してもらった恩師からは先の段階への展開を問われるし、ゆみにも「私達そろそろハッキリしないといけないね」と言われる状況に至ってしまった。
ゆみとの縁談は親が同席しなかったものの、恩師宅で紹介されておりお見合いという分類になるのであろうか?お見合いでなかったら、結論を急がずにもっと気楽にゆみとお付き合いが出来たのに。

 達也は自分一人では結論を出せず、当時のゆみを知る同じ教育界の方の意見を求めたりした結果、別れることにしてしまった。
 別れた日のことについて、達也は行動から会話の内容まで詳細に記憶している。
それは達也が別れた直後から喪失感に見舞われ、深い悔悟の念を抱き続け、当日の過ちを反芻してきているためである。まさに、「覆水盆に返らず」になってしまった。
 この日のことについては、余りにも辛く敢て読者の想像に委ねることにする。

忘れえぬ女 -(その8 心の変遷)

2014-11-22 10:03:38 | 小説
 十二月の初め、達也はゆみを伴って実家を訪れ、母と祖母に会ってもらった。
母からはいきおい彼女への質問が多くなり可愛そうになり早々に帰ることにした。

 達也は彼女が愛しく二人きりになりたく、
「二人だけになれるところに行こう」と言ったら
「留守だから家へ行こう」との提案に乗りゆみの家に向った。
途中彼女のことが愛しくてたまらず車を止めて手を握り合ったり、キスを求めたりしながら彼女の家に初めて入った。

 明るい時に見るゆみの家は旧家のたたずまいであった。
達也の家も主立ちの家柄であり、今まで紹介していただいた方は本人だけでなく家のバランスも考慮していただいたことが分かった。
 先祖の姻戚関係はまさに家と家との関係に重点が置かれており、当時はそれなりの秩序が保たれていたのであろう。
 達也の伴侶を求める判断基準は当然のことながら本人の人格そのものであるが、育った家はその人の価値観、習慣にも影響しており出来れば似通った家柄にこしたことがなくありがたかった。
 さらには、達也とゆみの遺伝子なら先祖に恥じない家庭を築けそうに思い、二人で両家を守って行かなければならないという義務感よりは、いけるという確信を抱くことができた。
 それは、以前にゆみが達也に「良い男(ひと)は皆、長男なんだから」と言っていたし、恩師に「姉はサッサとお嫁に行ってしまった」とも言ったそうである。このことから察するに、ゆみは出来ることなら婿養子を迎えて、実家を継ぎたかったのであろう。達也は長男であり婿養子にはなれないが、二人の子供の一人をゆみの両親と養子縁組するなどしてゆみの気持ちに応えなければと思うのであった。

 部屋にはピアノがあり、ゆみに弾いてもらっていた。
演奏しているゆみを見ていて、何気なく彼女の足に目が留まった。
その足は達也の甲高な足とは違い、脚に続いて細くスラッとしていることに初めて気付いた。
ハイヒールを履いたら綺麗だろうなあと想像していると、愛しくさが込み上げてきて思わずゆみを抱き締めてしまった。
ところがゆみは達也の意に反して嫌と言って達也の腕から逃げてしまった。
 それからコタツに入るにも二人並んで入りたいと言っても拒否され、コタツの周りで鬼ごっこのように走ったが捕まえられずに諦めてしまった。
 仕方なく対面に入り今度は足を伸ばしてゆみの足に触ろうとした、これは彼女も許してくれ子供の頃のように互いの足を蹴りあって戯れた。
 また、スタイルが良いゆみの水着姿が見たく写真を見せてくれと要求したが、とうとう見せては呉れなかった。
 
 話も他愛ないもので特に内容は思い出せないが、只二人一緒に居るだけで楽しく時間の経つのも気づかずにご両親が帰宅されてしまい、正式にご挨拶に伺う前に挨拶する羽目になってしまった。
 結局夕食までご馳走になり夜の九時ころ漸く辞することにし、
「車まで送って欲しい」と要求したところ
「キスするからダメ」と言われ玄関で別れた。

 今日は出来ればゆみを抱き、二人で結婚を約束しようとしていた達也としては最後まで“おあづけ”で何か気持ちが満たさなかった。
 独身寮への帰途、戴いた“自家製のなめこ”を届けるため実家に立ち寄ったところ、母もゆみに対する印象がよく「いい人だね」と言ってくれた。


 その後こんなこともあった。達也が車の中で愛おしさのあまり彼女の手を弄んでいると肉体的にも反応し我慢できなくなってしまった。そこで、ゆみの手をそっとズボンの上へ誘導したら、激しく抵抗し達也の手を抓り
「そういうことは結婚している人がやることでしょ! 抓ってやるから」と厳しく拒絶されてしまった。

 達也は相手への愛しさが増すにつれ、肉体的にも互いに接触したい気持ちが高まると思っていたのに。
せめてゆみが「あなたの気持ちは分かるけど、結婚までは我慢してね」などと言ってくれていたら、また可愛さが増したのに。

拒絶されることが続くと、理性的には結婚相手として申し分のないゆみであったが、

    ゆみには接触していたいという気持ちが湧かないのかな?
    ゆみは本当は達也のことををあまり好きではないが、客観的な条件が良いという理由か
      ら結婚してもよいか位に考えているのではないだろうか? 
    甘く蕩けるような新婚生活は期待できないのかな?

などと、否定的な思いが次第に頭をもたげ、結婚しようという気持ちも確信から迷いへと移ってしまった。

忘れぬ女-(その7 愛の深まり)

2014-11-21 09:18:48 | 小説
[お断り]
この小説はOCNのマイHPで発表してきたが、OCNでは個人のHP、ブログを廃止することになりました。
そこで、gooのブログに移行しつつあります。
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その日を境に、達也はいつもゆみと一緒に居たくなった。
また、一緒に居れば居ったで彼女に触れていたくなっていった。
 人目につくところでは触れられない反動から、車を運転しているときは常に左手で彼女の手を握っており、運転操作が必要なときは慌てて手を離し、用が済めばまた握るのであった。


 あるとき、達也がゆみを抱き寄せたとき偶然におっぱいに触れてしまった。
彼女はすまなそうに
「小さいのよ」と言う、達也はおっぱいの大きさに関心がなかったので
「大きい女は頭が良くないと聞いたことがあるから、小さくていいよ」
と言い、彼女のいじらしさがまたたまらなくなった。

 また、ゆみの手をもてあそんでいると、
「学校で土方みたいなこともするのよ、あなたの手のように綺麗ではないわ」と言う彼女に
「きれいな手だよ。僕だって油まみれになることもあるし、こんなに大きなホクロがあってみっともない手でごめん」と、愛おしく彼女の手の甲と指に口づけするのであった。
 さらには、達也はゆみのものは何でも受け入れたいと言う気持ちになり、あるときなど肩を抱き寄せると「風邪がうつるわよ」と言われたのに
「ゆみさんの風邪ならうつりたい」と言って唇を寄せるのであった。


 達也はゆみと結婚したいという気持ちが増して来るのとは逆に、こんなに浮かれて本当に大丈夫なのかと言う気持ちも頭をもたげるのであった。
 今はいいけれど将来にわたって相性がいいんだろうか?
気懸かりになり、相性に関する本を調べているうちに、血液型に関して達也のA型と由美のO型は不適合な場合があるという記述に遭遇してしまった。

 達也とゆみの血液型の組み合わせは達也の両親と同じであった。両親の夫婦仲が必ずしも良い様には思われなかった小学生の頃の記憶がまた達也を不安にした。
 早速、知合いの産婦人科医に電話で相談したところ
「血液型不適合に関して学会では定説になっていないし余り気にすることはない。それより遺伝的な問題がないか調べなさい」
との見解をもらい安堵したが、彼女にも手紙で内容を伝えた。

 ゆみからは、綺麗な文字で
「出会った直ぐの頃でまだ好きにならないときなら、問題があるなら止めればいいだけなんだけど」と言う趣旨の返信があった。
 達也は字には劣等感を持っていたので、ゆみの綺麗な文字を見て改めて好きになるのであった。
 最近の統計的な男女の相性は、男性のA型と女性のO型は最高に相性が良いとされている。当時も最近のようなデーターがあれば二人の関係は違った形になっていたかも知れない。


 あるとき、達也は行き付けのスタンド割烹のママさんに
「愈々私も結婚しようと思っている」と言ったところ、
「お相手はあなたと同じくらいの歳で、学校の先生か何かでないの」と言われ、商売柄とは言えさすが人を見る目が鋭いなと感じいった。
あるいは、何気なくゆみのことを話の端に出していてママさんのデーターベースに蓄えられていたのかもしれない。

 また、以前に交際していた会社の受付をしていた美人と言うよりも可愛い女の子を店に連れていったことがあったが、後でママさんから
「彼女はあなたに合わせるのに、いじらしいくらいよ」と言われたことがあった。
事実交際を重ねるにつれて価値観の違いが意識され、なんとなく終わったことを思い出し、ママさんの観察洞察力によればゆみとは似合いの夫婦になれそうに見えるのかなあ、と期待を膨らませるのであった。


 この頃になると、結婚後についての話題も多くなっていった。

「新婚の一年間は親とは同居しない」
「家事は交替にして欲しい」
「でも帰宅は七時過ぎになっちゃうよ」
「子供が出来たら育児に専念するため勤めを辞めて欲しい」
「転勤になったらどうする?単身赴任なら浮気しちゃうかも」
「そうしたら私も遊んでやるから」
などと真剣なものでなく楽しい言葉遊びみたいなものであった。