このGooブログに引っ越すことになりました。
この「じゅんやの喜界島便り」も引き続きよろしくお願いします。
「側女の子供たちには贈り物を与え、自分が生きている間に、
東の方、ケデム地方へ移住させ、息子イサクから遠ざけた。」
(創世記25:6)
取られてしまったそーめん
喜界島、中里集落で奇祭 そーめんがぶー (乾麺を袋ごと公民館の屋根の上と土俵から投げる)があった。ルールがいくつかあって、小さなこども、年寄りは優先。中学生以上は無礼講で他人が持っている乾麺を横取りしても良い。昔は鍋で煮ているそうめんを鍋ごと横取りしていた。 僕がひと袋掴んで、ぶらぶらしていたら中学生が横取りして行った。 残念。 テレビ局も取材に来ていた。
「イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした。」 (出エジプト記16:31)
雨宮先生、岩島先生最終講義
上智大学で1月31日(金)神学部の雨宮先生と岩島先生の最終講義があり、
沢山の方が耳を傾けた。
雨宮先生は『わたしにとっての聖書』Ⅰ新約と旧約の違い、Ⅱ人の思いは神からみれば「たくらみ」、Ⅲ「神の蝕」に陥ったナザレの人々、Ⅳ人間がもつ弱さは偶然ではない。についていつもの雨宮節で丁寧に教えられた。
「なぜなら 彼は 知っている 私たちの造られる様を
彼は覚えている 次のことを 塵 私たちは」 (雨宮先生逐語訳 詩編103・14)
岩島先生は『修道生活の精神と三誓願の意義』についてⅠ修道生活の歴史的概観、Ⅱ『教会憲章』(第二バチカン公会議)に見る修道者の位置付け、Ⅲ三誓願の意義、についていつもの懐かしい語調で教えられた。
ベネディクトの「祈りかつ働け」(Ora et labora)、フランシスコの「注釈ぬきでの福音」(Evangelium sine glossa)、ドミニコの「説教者の会」(Ordo Praedicatorum)、イグナチオとイエズス会、そしてイエズス会の特徴である司祭中心などについて述べられた。
「すべてを取ってください。主よ受け入れてください。私の記憶も、知性も、意思も。私にあるものと持っているものすべてを。あなたがこれを私に下さったのですが、主よ、あなたにお返しします。すべてはあなたのものです。どうぞ、あなたの望みのままに計らって下さい。あなたの愛と恵みを与えてください。私にはこの恵みだけで十分です。」 (イグナチオ・で・ロヨラ『霊操』より「自己を捧げる祈り」)