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明日は第10回「加納さんを読む」 第6章『教育総進軍』その2

第10回読書会(9日)は、
明治二十七年三月の加納久宜(鹿児島県知事)と、岩崎行親(後の旧制第七高等学校造士館の初代校長)との出会いから始まります。
「やあ、あなたが岩崎さんですか」と言うなり、挨拶抜きでストーブの前に腰をおろし、ドサリと鹿児島の地元新聞の切抜きを机に広げた。「こんど県立の中学校を作るのですが鹿児島は、民党、吏党の対立が激しくて学校の校長は双方から攻撃のマト。まあこのとおりです」と新聞を広げながら、まるで旧友にでも話しかけるような親しさだ。当時浪人中の私を”先生”呼ばわりする。私は初対面ですっかり加納知事にほれ込んだが病身の母親もいることだしいと一応相談の上返事するということでその場は別れた。ところが、友達を訪問して帰った途端驚いた。なんと<鹿児島県中学校教諭ニ任ズ、年俸八百円ヲ給ス>という辞令が届いているのだ。無礼千万な辞令もあったものだが・・・

加納知事が鹿児島県知事辞令が、同年の1月20日であり
その後一家転住しての着任であったので、
真っ先に取り組んだ一つが「教育」であったことがわかる。

(蛇足、麻生太賀吉の母、麻生太郎現首相の祖母となる六女(夏子)も、一緒に鹿児島に移住している)

何しろ第2章での紹介によれば、
明治25年の第2回総選挙では、すさまじい干渉選挙があり、
民党(自由民権運動を継承する政党系)と
吏党(政府よりの姿勢を示す政党系、温和派と自称)の対立は根深く、
着任当初、加納知事は何から手をつけてよいかわからない状況であったそうだ。
加納知事着任のころ、鹿児島はいわゆる”干渉選挙”に源を発した民党・吏党の抗争にあけくれ、まさに県政不在の大混乱をきわめていた。・・・

それだけに、不偏不党の姿勢で地方自治と教育に取り組み、
勧業(産業育成と人材育成)に心血を注いだ加納知事の見識が光ります。
21世紀の今日、わが国の教育問題を解決するための、
大きな鍵のひとつがここにあると、確信しますが、
皆さんは、どのようにお考えでしょう。

この場面には、前段があります。
・・。両者の劇的な出会いを岩崎自身次のように語っている。

 明治二十七年の三月である。友達の結婚式に招かれて芝の紅葉館にいったところ突然文部省の役人が来て「明朝、専門学務局にきてくれ」という。何事ならんと出向いたところ局長が「突然だが、新任の鹿児島県知事加納久宜が来て、このたび鹿児島にできる中学校の教頭がほしい。校長はいるが補佐役に適当な人材がなくて困っているという。君の略歴を話したら手を打って大乗り気だ。ひとつ直接会ってみないか」という。自分には再び官界に入る気持ちは無いがそんな事情なら一教員として創立を助けてもよいと答えた。局長と入れかわりに入ってきたのが加納知事である。
この後に先ほどの引用が続きます。

「校長はいるが補佐役に適当な人材がなくて困る」という感覚は、
加納が大審院検事になる以前、
文部省中視学として全国を視察したり、
岩手県師範学校校長・岩手県学区取締総監督、新潟学校校長を
勤めた経験があったからこそ、出せる本音であろうと感じます。

正しい理念(基本方針)と
活かせる知識教養(創意工夫と実践の力)なくしては
教育改革はありえないと肌で感じていたことと思います。

また、人望があったからこそ、
一人の新任知事に、文部省の役人がそこまで配慮したことと思いました。
もちろん、文部省に勤めていたこともあったでしょう。
しかし、第2章で次のように紹介されているように、
誰も引き受けたがらない鹿児島県知事に任命されたいきさつからも、
評価し支援する人がいたことが、伺えます。
 ある日、彼は司法大臣の大木喬任に呼ばれた。いよいよ司法界から永の御暇をいただくか、と推察しながらやってきた彼を、待っていたのは意外にも県知事推薦であった。
「君を地方長官に選抜したいと内務大臣から照会がきている。君の意向はどうか」
 まったく予期せぬ光栄である。彼は厚く礼を述べた上で、きっぱり念を押した。
「熟慮の上、何分の返答を申し上げるが、もしもその照会先の県が某県であるならせっかくながらお断りしたい。かつて私は文部省督学局にいたころ、その地方を視察して教育方針の誤った点を指摘し、学務当局を攻撃して物議をかもしたことがある。今の県民は当時の学生だから、何かにつけ県政推進の上に無用の障害となる。断じて取り消してほしい」
 某県とは岩手か新潟か、もちろんそのいずれかであろう。
 翌日、大木は再び彼を呼び「予定の任地は偶然にも君が承諾せぬ県であったからやむを得ず取り消してきた。しかし再び内意をつたえるからそのつもりでいたまえ」。すなわち鹿児島県知事の内旨である。
 加納はつつしんでこれを受ける旨答えた。「世に難治の名ある県の知事たるはまことに本懐これに過ぐるものはない。唯々勉励従事。以て聖明に答え奉る」
 鹿児島県知事に命ず。時に明治二十七年一月二十日である。
 ところで
「いよいよ司法界からも永の御暇」と自身が予測したのは、どうしてなのだろう。
読書会では、「何か筋を通して誰かの反感をかったのではないか」という
意見もありましたが、あくまでも憶測です。
 いずれにしても、保身や出世競争には関心がないことが伺える。

また、
はじめての貴族院議員の互選の資料から、子爵の間でも、
実兄の立花種恭とともに、信頼があったことがわかる。

京都大学学術情報リポジトリ
「紅(くれなゐ)」
「初期議会の貴族院と華族」佐々木 克 人文學報 Dec-1990
Ⅰ 議会開設と華族の動き
2華族の選挙 より(P34)
 子爵の選挙権を有した者は297名(被選挙権者272鋸で,この内,海外に出ている者7名,当日棄権者6名で,投票した者284名であった〔)選挙は連記(定員数70名を連記)記名投票であるから,単純計算で19,880人の被選名を集計することになる。
 結果は,最高得票数277票,最低137票。260票以上得票した者は,勘解由小路資生(277票),立花種恭(275票),鍋島直彬(273票),大給恒(271票),加納久宜(268票),谷干城(266票),大河内正質(261票),堀田正養(262票),松平乗承(261票)の9名であり有権者の90%の支持を得ていたことになる。また70名の当選者のうち,旧華族44名,新華族26名となっている。


読書会テキスト
「加納久宜 鹿児島を蘇らせた男」鹿児島人物叢書
大囿純也著 高城書房
(一宮町の三芳堂の郷土史コーナーで入手できます)

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