京都御所の参観を終えて清所門より退出し、築地塀ぞいに北へ進みました。
京都御所の西辺築地の一番北の門、皇后門(こうごうもん)です。名前の通り、後宮専用の出入口として使用された門です。その内部には皇后宮常御殿などの施設群がありますが、通常は非公開です。
同行者は、2005年の安政御造営150年記念、2009年の天皇皇后両陛下御結婚満50年記念、の二回にわたって皇后宮常御殿の一般公開に行ったそうです。その際にこの皇后門(こうごうもん)は開かれたのか、と尋ねたら、「いいえ、今日と同じで清所門からの出入りでしたよ」と答えました。
皇后門(こうごうもん)の北の辻を左折して西へ進み、上図の乾御門を見ました。京都御苑の西辺の4つの御門のうち、最も北に位置しています。
これも江戸期の門なんだろうね、と同行者に聞くと、「でしょうね、位置は変わってるけれどね・・・」と答えました。位置が変わってるとはどういうことだ、他からの移築なのか、と問い返すと、「移築といっても、50メートルぐらいですよ。もともとは乾御門はもうちょっと内側に建っていたんです」との答えでした。
同行者の説明によれば、京都御苑の四囲の九つの御門のうち、江戸期からの位置を保っているのは東の寺町御門と西の中立売御門の二ヶ所だけで、あとの七つの御門は現在地より内側に位置していたそうです。あの蛤御門も実は位置が移動していて、もともとは50メートルほど内側に南向きで建っていたそうです。
これらの江戸期以来の各御門を、明治十年に明治天皇の指示により京都御苑を整備した際に四方の外郭線上に移築したのが、現在の状態であるそうです。
乾御門から折り返して、北側に広い敷地跡を示す上図の近衛邸跡へ行きました。
現地の案内板です。近衛家は、藤原不比等の次男藤原房前を祖とする藤原北家の嫡流にあたり、公家の五摂家の筆頭で、明治期以降の華族の公爵家のひとつです。初代は藤原忠通の四男の基実で、平清盛の娘と結婚して平家が朝廷に権勢をおよぼす流れを作った張本人として知られます。
近衛家は、藤原北家が天皇家の外戚として長く摂関職を務めた歴史を反映してか、明治から昭和においても、人臣で最も天皇に近い地位にある家とされました。
なので、第29代で首相も務めた近衛文麿は、唯一、昭和天皇の前で足を組んで話をすることが許されている唯一の存在だったそうですが、国家総動員法などの制定によって日本を太平洋戦争に突き進めた戦争犯罪人の一人としてGHQにより告発指定されたため、それを屈辱として服毒自殺しています。
現在の当主は第31代の近衛忠煇氏で、日本赤十字社社長などを務めています。先代の近衛文隆氏の妻の養子として肥後細川氏から入った方で、政治家で首相も務めた細川護熙氏の実弟にあたります。
近衛邸跡にいまも残る庭園の池の跡です。水は無くなって久しいようですが、さきに見てきた九條邸跡の庭園の九條池に対し近衛池とよばれています。池の周囲には「近衛桜」と呼ばれるしだれ桜があり、お花見のシーズンには近隣の市民でにぎわうそうです。
近衛邸の屋敷などの建物は、いまは全て移築または撤去されて何もありません。屋敷の江戸期の政所御殿は奈良の西大寺に寄進されて愛染堂となり、京都の東福寺塔頭の毘沙門堂勝林寺には屋敷の大玄関が移築されています。ほかに愛知の西尾城歴史公園には近衛家の数奇屋棟と茶室棟が移築されています。
近衛邸跡から京都御所の北側築地塀沿いの通りを西に進み、上図の朔平門(さくへいもん)を見ました。御所の真北に位置する門で、かつては姫宮御殿や皇后御常御殿などに勤めた宮中の女官達の通用門であったそうです。
朔平門(さくへいもん)の北へ折れて今出川通へ向かいました。右手に上図の桂宮邸跡の築地塀と表門が建っていました。
桂宮邸跡の表門から少し北には、上図の勅使門が建っていました。奥に見える門は今出川通に面した今出川御門です。桂宮邸の屋敷は二条城本丸に移築されて本丸御殿として扱われており、また邸宅跡には庭園および池が残っていますが、現在の邸宅跡は宮内庁職員宿舎の敷地として使われていて、内部は非公開になっています。
桂宮家は、安土桃山期の正親町天皇の第一皇子である誠仁親王の第六皇子・智仁親王を祖とし、12代を数えましたが、12代目の仁孝天皇第三皇女淑子内親王に継嗣がなく断絶しています。なお昭和期の桂宮家とは無関係です。
この桂宮邸跡から今出川御門を出て、京都御苑の見学散策を終えました。
それから今出川通を西へ進んで烏丸通との交差点で右折、北へ少し進んで上図の大聖寺へ行きました。同行者はこの寺に入るのは初めてだったそうで、「何かあるんですか?」と聞いてきました。この質問には面くらいました。
「・・・君はすぐ向かいの大学に4年間通っていたのに、このお寺のこと、全然知らへんの?」
「・・・うん・・・、勉強不足で御免なさい・・・」
「いや、謝らなくてもええけどな・・・、大学では平安期の王朝文学と朝廷空間を調べてたんなら、室町期の歴史には興味が無かったってことか」
「うん・・・、えっ、じゃあ、このお寺は室町時代の史跡なの・・・?」
「そうです・・・、入ってみればすぐに分かります・・・」
大聖寺の門をくぐってすぐ右手に上図の石碑があります。同行者は早速石碑に近寄って、碑面の刻字を「花の御所」と正確に読み取って、次の瞬間に「えっ!」とびっくりしていました。
「花の御所って、室町時代の足利将軍家の幕府のこと?」
「そうです」
「ええー、知らなかった!ここが室町幕府の御所の地だったのかあ・・・、道理でここの西に室町通なんて通りがあるわけだ・・・」
「室町幕府の御所の正門が面した通りだったから、室町通の名が付いたんですよ・・・」
この大聖寺は、現在は御寺御所とも呼ばれる、天皇家ゆかりの尼門跡寺院です。開基は日野宣子といい、足利義満の正室日野業子の叔母にあたります。日野宣子は光厳天皇の妃となり、光厳天皇の没後に出家して無相定円と名乗りました。
足利義満は、ここ花の御所内にあった岡松殿に無相定円を住まわせ、彼女が永徳2年(1382年)に没した後、岡松殿を寺にして供養しました。その寺が大聖寺であり、いまもその位置をほぼとどめています。 (続く)