気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

龍と仁と天と12 天龍寺門前へ

2021年11月25日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 大方丈東の拝観受付口を出て、上図の法堂の前に出た。いま法堂と呼ばれるが、もとは塔頭の雲居庵の禅堂であった建物である。禁門の変(蛤御門の変)で天龍寺の伽藍が焼失した後に移築され、明治三十三年(1900)に法堂とした。なお仏殿が資金難により再建されなかったため、仏殿をも兼ねて現在に至る。寺内では数少ない江戸期の建物である。
 堂内は通常は非公開で、釈迦三尊像およびを光厳上皇の位牌と歴代住持の位牌、開山夢窓疎石と開基足利尊氏の木像が祀られる。正面には、雲水が座禅修行するための禅堂だった名残である「選佛場」の扁額がかけられる。

 

 法堂の東には本来ならば仏殿が建つが、焼亡して再建されないままなので、その区域は現在は駐車場になっている。それを過ぎて東にゆくと、放生池があって、伽藍中央軸線の参道に沿った上図の石橋が掛けられる。
 かつてはこの石橋の前にて仏殿を礼拝し、渡って仏前に進んで再拝礼するのが普通であったが、現在は石橋の通行が禁止されている。それで、いまの参道が北寄りに置かれて、山門から中門を経て庫裏へと真っ直ぐに進む形になっているわけである。

 

 勅使門の横に戻った。本来ならば伽藍の正門であるが、勅使門として開かずの門になっている。先述したように、かつては伏見城の門であったと伝えられるが、確証は無い。正式名称の「旧慶長内裏裏御門」が示すように、もとは慶長年間の京都御所内裏の明照院の門であった、と受け止めれば充分であろう。

 

 寺外へ出て、しばらくブラブラしているうちに三条通に出て、上図の臨川寺の山門の前まで来た。かつては天龍寺の塔頭に列したがその後独立し、現在は非公開寺院となっている。私が大学生の頃、この寺の境内地に隣接して「嵐山コレクション」と呼ばれる古武器から第二次世界大戦までの旧日本軍兵器の展示施設である京都嵐山美術館があった。

 私自身は、その京都嵐山美術館に三回訪れたことがある。海軍の零戦や回天、陸軍の疾風、特殊潜航艇や戦艦陸奥の主砲、九五式軽戦車などを見学した記憶があるが、いま考えても、あれだけの内容をもった軍事系収蔵展示施設は珍しかったな、と思う。所有者の死去と京都市の街区整理事業区域にあたったことによって運営は5年ぐらいで終わってしまい、展示品の主なものは各地の施設に引き取られていると聞く。

 が、古武器や銃火器の大半は散逸してしまって行方が知れないという。確か、遺品が唯一とされた大発や震洋も在ったのだが、それらもどうなったのかは不明である。臨川寺近くの土産品店で買物をした際に、店主らしき老人に話を聞いてみたところ、大発や震洋は閉館後に市がゴミとして破棄処理したらしいとの事であった。大発も震洋もいま現存遺品が皆無なのであるから、本当にもったいないことをしたものである。

 

 京都嵐山美術館の跡地は、いまは観光バスなど大型車両の駐車場となって売店などが立ち並ぶ。かつて見上げた零戦の深緑色の翼、施設内に無造作に横たわっていた飛燕の残骸、赤さびた特殊潜航艇、ずらりと並んだ野戦砲の列、空を睨んでいた25ミリ単装機銃などの姿を思い出しつつ、半ば空しい気分で三条通を引き返した。左手には大堰川の流れと渡月橋が望まれた。

 

 なんとなく、渡月橋を渡って、川の南岸に行った。今回の巡礼行動は天龍寺で終わったのだが、まだ日は高く、たまには何も考えずにのんびりしたくなった。

 

 それで、しばらく、ぼんやりと大堰川の水面を眺めていた。

 

 まだ2月のことであるから、じっとしていると数分もたたずに体が冷えてきた。ならば温まろう、と思いついて近くの嵐山温泉「風風の湯」へ立ち寄った。入浴と休憩あわせて二時間余りをまったりと過ごした。

 

 再び外に出ると、薄暗くなりつつあった。まだ明るいなあ、と思ったが時計は17時過ぎであった。

 

 では、と傾く西陽と薄黒く広がりつつある山かげの陰影を遠くに眺め、渡月橋の南の中島のバス停から市バス28系統に乗り、帰路についた。久しぶりに史的好奇心と探究考察とを心行くまで満喫出来た楽しいミニ巡礼であった。  (了)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする