瑞峯院の表門を出て次へ行こうとした途端、U氏が「待て」と言って立ち止まり、門外に建つ上図の石柱を指しました。近づいてみると山内の道標のようで、「左 瑞峯院庭園」と刻まれていました。
「道標だな」
「うん、道標なんだけどな、これ、何かの転用石材なのかね?」
言われてよく見ると、確かに何らかの石材を転用しているようでした。一見して橋脚のように見えました。似たような石材を京都国立博物館の庭園内の屋外展示で見た事があります。この半分削った部分に継いではめ込む方式で何かの構造物を支える、礎石の一種かと思われます。古い木造鳥居の基礎などがこういう形になっているのも見たことがあります。
山内を移動中にU氏が見つけた「平康頼之塔」です。平康頼は、後白河法皇の近習として北面に仕えた武士で、平判官入道の通称で知られます。安元三年(1177)六月の鹿ケ谷の陰謀に参加したかどで捕縛され、俊寛や藤原成経と共に薩摩国鬼界ヶ島へ流された人ですが、墓は東山の雙林寺にありますので、こちらは供養塔でしょうか。
「平康頼之塔」の前から勅使門の方向へ進みました。U氏が「あの総門もついでに見て行こう」と上図右奥の門を差しました。
それで総門をくぐっていったん外に出て、振り返って総門を見ました。大徳寺一山の総玄関口にあたりますが、建物自体は古くないようで、文化財指定の標識も見当たりませんでした。外にはバスやタクシーの駐車場があり、大徳寺への観光客の大部分はここから出入りします。
再び境内に進んで、今度は上図の黄梅院へ行きました。今回の大徳寺塔頭特別拝観見学の五ヶ所目、ラストでした。
表門脇の説明板。
黄梅院の表門です。黄梅院は、永禄五年(1562)に織田信長が父信秀の追善のために建立した小庵にはじまり、天正十六年(1588)に毛利輝元、小早川隆景らが春林宗俶(しゅうりんそうしゅく 大徳寺第九十八世住持)を勧請開祖として庵を院に昇格せしめて黄梅院と号して成立しました。
表門の細部を見ました。この表門は庫裏とともに天正十六年(1588)に小早川隆景が改修したもので、戦国末期の大名家寄進による門建築の標準的な遺構として、国の重要文化財に指定されています。
表門をくぐると一面の紅葉があかあかと輝いて上から覆いかぶさってきました。大徳寺の紅葉の代表格として知られる黄梅院の紅葉庭です。
既に大勢の観光客が表門の内外に立ち止まって紅葉を愛でていました。U氏と私もその列の右端に控えめに加わって、しばらく頭上の紅葉を見上げていました。 (続く)