妙心寺寿聖院の石田家墓所にて石田三成の墓塔に祈った後、向かいにある上図の墓塔にもU氏は恭しく一礼し合掌しました。石田三成の嫡男、石田重家の墓です。
石田重家は関ケ原戦後に大坂城から妙心寺寿聖院に移り、出家して済院宗享(さいいんそうきょう)と名乗り、父三成の遺髪を寿聖院の墓におさめたといいます。
元和九年(1623)に寿聖院の第三世住持となり、寛文五年(1665)に隠居して岸和田で余生を過ごした後、貞享三年(1686)に天寿を全うしました。天正十四年(1586)の生まれと伝わりますから、享年は100歳であったことになります。
寿聖院の寺伝では104歳で没したとされていますが、当時としては大変な長生きでした。若くして世を去った父三成の菩提をひたすら弔う日々であった、とされています。
関ケ原戦で父三成が敗れて捕えられたことにより、重家も咎めを受けるものと覚悟したといいますが、周囲の助命嘆願もあり、また重家が豊臣秀頼のもとに出仕していた頃に徳川家康にも気に入られていたということもあって、結果的に助命が決まりました。重家の「家」は、徳川家康の「家」を拝領したものとも言われますが、かなり気に入られていたようです。
寿聖院の本堂です。この寺は、石田家の菩提寺として、慶長四年(1599)に石田三成が父正継のために創建したと伝わりますが、別伝では父正継が開基とされています。現在も寺には石田正継の肖像画が祀られていて、国の重要文化財にも指定されていますが、実態としては開基の肖像画であるのだろう、と思います。
つまり、石田正継を開基として三成が創建した寺、と見なすのがよいかなと思います。上図の寺号額がかかる本堂は、創建当時の寿聖院の書院であったと伝わり、内部空間も寺院のお堂と言うよりは住宅のそれに近いところがあります。おそらく、もとは寿聖院が創建された時の方丈に相当する建物だったのでは、と推測します。
今回の特別公開では、国重要文化財の開基石田正継肖像画(上図右)や石田三成肖像画(上図中)、石田重家こと済院宗享肖像画(上図左)が公開されていました。石田家三代の肖像画が並ぶと、さすがに壮観でした。
U氏は感涙にむせんでいて、「これぞ、もののふ共の画だよ・・・」と左の石田正継肖像画から順番に一礼し合掌し、さらに深く頭を垂れていました。
本堂の南には、上図の庭園が広がります。寺では狩野永徳の庭と伝えています。U氏が「狩野派って絵師なんだろ?庭師もやってたのかね?」と訊いてきましたが、私も知らなかったので「さあ・・・」と首を傾げました。
しばらく二人とも沈黙しましたが、U氏が「まあ、いいんでないか。この国の一方の軍をまとめて、大胆にも関ケ原戦で格上の徳川家に決戦を挑んだ、あっぱれな男たちの霊が静まる寺の庭なんだ。狩野永徳の名さえ伝わっていても不思議はなかろうて」と、なにか満足げに呟きました。
寿聖院を辞して、妙心寺境内の南北の石畳道を引き返しました。上図は、振り返って北の総門をのぞんだ図です。
戻る際に中心伽藍の諸建築を再び見て行こう、とのU氏の提案で、帰りは伽藍の西側の参道を進みました。上図の三門も、来た時と反対側から見上げつつ、その前を横切りました。
三門の南には、放生池と勅使門が見えました。
そして南の総門を出て、なんとなく二人で回れ右して門に向って一礼しました。その際にU氏が「従三位水戸権中納言、謹んで参拝を終える」と呟いたので、こちらも真似して「従四位下右京大夫、謹んで参拝を終える」と合わせました。つまりは水戸光圀と細川頼元になりきっていたのでした。
バス停へ向かう途中、U氏が「次は5月だな」と言いました。
「5月というと、大徳寺の特別公開のアレかね」
「そう。必ず行こうぜ」
「承知」
ということで、2023年2月の、初春の京の特別公開巡礼が無事に終わったのでした。 (了)